ネズミを好きになった猫

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ネズミを好きになった猫
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ネズミを好きになった猫

あらすじですがどうぞ。 一部も全部もコピー不可。

 深夜。そう事の発端は、猫も釈氏も寝静まった、とある深夜のこと。
つい先ほどまで、辺りにはホウ、ホウ、という夜更かし好きのフクロウの鳴き声や、キチチ、チチ、という小さな小さな生き物達の羽音、夜風がわななぐフウウー、という暗く底深い音が、規則的な音と休止符の楽譜にのって静かなプロローグのオーケストラを奏でていた。しかし一人の女性が自室の窓辺にある仕事机の上に突っ伏したまま、意識を手放してしまうと間もなく、その微かな音楽はモグラ達の寝床へ吸い込まれ、代わりに星々の瞬きの音まで聞こえてきそうなほどの静寂が訪れた。そんな最中。
ギギ、キイーーー、という鼓膜に響く金属音に目を覚ましたペリエル・マウイースは、窓の外を動く影に注意を向けると、メガネの下に指をねじ込み少し目尻の垂れた小さな目を擦った。油不足で錆び付いた鉄の扉を開け、彼女の夫であるマッシュウィルが今夜も出て行く。ペリエルは彼がその場を去って彼女から見えなくなった後もしばらく、その方角に注意を向け続けた。そして再び訪れた深い静寂の中に小さくため息を漏らした。
窓から入ってくる微かでありながらも強い光によって出来た、部屋に落ちている長い影のように、自らに張り付いて離れなくなってしまった哀憐の感情を慰めようと、ペリエルは彼女の左手に寄り添うようにして眠っている飼い猫の毛足の長い体毛をそっと撫でた。チロリアンは両耳をピクッと動かし、大きくあくびをした後ぱっちりとした形の良い瞳を開くと、主人の左手に頭をこすりつけた。

「起こしてしまったわね」
 ペリエルは窓の外へ再び目をやる。夜空高くには丸い大きな月が浮かんでいて、辺り一体を明るく照らしている。流れ来る薄い雲に大きな光輪の輪郭がくっきりと見えるほどの見事な満月に照らし出されながら、彼女は疲れたような微笑みを浮かべた。
強い月光の明かりはその下の景色を闇に紛れさせる事はなかった、彼女の座っている窓際の仕事机の上の、F・カフカの「変身」とS・キングの「グリーンマイル」のペーパーバックの最終巻という、二冊の本のタイトルも、そのすぐ側に顎を落として寝そべっている飼い猫のチロリアンの長い髪の艶やかさも、そして先ほど出て行った彼女の夫の姿まで。

 チロリアンはニャーと鳴き声を上げると一度伸びをして、彼女の左手に顎をずらして乗せた。ペリエルは微かな笑い声と一緒に「喉を撫でて欲しいのね」と言って飼い猫を優しく抱き抱えると、喉からお腹を一通りいつものように撫でてやった。濃いグレーの、毛足の長い彼女の飼い猫は、主人に両腕で抱き抱えられながら満足げに喉を鳴らした。
「目を覚ましたついでに、今夜は私に少し付き合ってもらえる?」
 ペリエルは月光のテーブルライトの下で、チロリアンの毛を優しく撫でつけながら、また出て行った夫への愚痴をこぼした。簡単な相槌さえうってくれない相手への内面の吐露はただの寂しい独り言でしかないと理解はしていたけれど、その時の彼女はこれまではそこにあたかも存在しないかのようにやり過ごしてきた、一人の女性としての自分の、虚しい胸の内を今すぐ打ち明けてしまいたいといった気分だった。夫が夜に出て行って愛人と合っているというのは彼女にとって特筆するような事態ではない。しかしながら不意に、美しい満月の下でそのような場面を目の当たりにするというのは気持ちの良い話ではなかった。私が気付く事のないよう、もっと静かに出て行ってくれればよかったのに。チロリアンは少し眠いのか、目を薄く開いて首から上だけをほんの少しずらしては戻し、ゆらゆらと腕の中で揺れていた。ペリエルはチロリアンをテーブルに載せると、両腕を折ってうつ伏せになり、半分は眠りに落ちてしまっている聞き手ではあったけれど、しかしながら話しかけるように言葉を口にした。その後机にうつ伏せのまま、ペリエルは気が付くとまた朝まで眠りに落ちた。

 すっかり太陽が顔を出した早朝、冷えた空気に寒さを覚えたペリエルは体を小さく震えさせた。彼女の手に、切り揃えられた短い絨毛の感触があり、彼女は最初それを飼い猫のチロリアンのものであると思った。しかし触れているのは自らの腹部であり、胸部であり、脚部である。不思議に思ったペリエルは鈍る頭を徐々に働かせながら目をこすり開いた。眠りに落ちる前に外したはずの、彼女の仕事である書き物の最中だけかけるメガネが耳にかかったままになっている。彼女は少し不思議に思いながら、まどろみの中、体のあちこちに手を伸ばした。メガネのせいで、こめかみと目頭の痛みが疼くわ。ああそうだ、昨夜はあのまま、椅子に座って机にうつ伏せになったまま、眠りこけてしまったんだった。けれどそれより前に、無意識にメガネを外したと思っていたんだけれど、すでに夢の中だったのかしら。外はえらく明るいようだけど、今は一体何時だろう。ピッグスキンのバッグともまた違う、むっちりとした鼻の先の肌触りが変だわ。太腿もお腹も、もっちりと膨らんだ頬まで、妙に毛だらけね。それにしても、赤ずきんのおばあさん、私のお耳はどうしてこんなに大きいの・・・?

 ペリエルは驚きと同時に目をしっかりと開き、全身に生えている短い絨毯のような毛を何度も両手で撫でつけた。彼女の体は大人の人間が手のひらで握り込めるほどの大きさの、一匹のネズミに姿を変えていた。体表という体表を覆い尽くす濃いグレーの体毛が、丸く広がった大きな耳が、ペリエルに「これは夢よ、そうよ私はまだ眠っているの、そうとしか考えられないわ」と彼女に結論づけさせる。きっと、筆が進まなくなったからって気まぐれにページを開いてしまった、「変身」のせいね。変身をちょっと読んだくらいで変身する夢を見るなんて、なんて短絡的な脳みそかしら。だけど、なんてリアルな質感と肌触り、まったくもっていやに現実的な夢ね。
見上げるとずっと高い天井より近くに、仕事机の引き出しとその底面があり、どうやら夢の舞台は椅子の座面の上であるらしく、彼女は夢の中で薄く詰められた綿で少し膨らんだ座面の上に立ってそれらを見上げているようだった。人間であった時はこんなうっすらとしか詰まっていない綿のクッションでも、まぁ全くの硬い木肌よりはマシねと思っていたが、小さな体でその上に乗ってみると、鋲で四角い座面の周囲にそって本革が張ってあるからぴんとした張りはあるが、ジャンプしてみるとしっかりと弾力を感じるくらいの厚みがある。なるほど二本のほっそりとした後ろ足にも衝撃は跳ね返ってこない。しかしながらペリエルは頭をかかえた。別に椅子の座面のクッションの弾力を実感したいと思ったことなんてないわ、これは夢なのよ、夢でなくてはいけないのよ。ここからでは机の裏が見えるばかりで卓上の置時計の針が何時を指しているのか確かめられないけれど、そんな事はどうだっていいわ、これは夢なんだもの。もう一眠りしよう、私、どうやら自分が思っている以上に、疲れているんだわ。そう思った矢先だった。
 ワァアァウゥゥーと、ペリエルがこれまで耳にしたことのない、不穏な声色の鳴き声が上から降ってくる。同時に彼女の体はすっぽりと暗い影に覆われた。椅子の座面に小さく丸まったペリエルを見下ろすように、飼い猫のチロリアンが鋭い眼光を携えて彼女を睨みつけていた。見慣れた猫のシルエットの中に、艶やかな一対の目が窓から入ってくる太陽の光を背にしながらも一瞬キラリと光る。いつもペリエルへ向けられる従順な眼差しとは真逆の、ターゲットへ向けられた冷徹な視線に本能的な怯えが走り、ペリエルは体を強ばらせた。獲物を見る目で彼女を捉えたチロリアンは、即座に先ほどと同じ鳴き声を上げる。チロリアンはワァアァウゥゥーとしか鳴いていないが、ネズミに姿を変えたペリエルには、その鳴き声を言葉として理解することが出来た。
「まさかこの家に、ネズミなどという下劣な害獣が入り込むとは」
「チロリアン、私だ、私が誰か分からないのか」
「ダビズ婆さんの目の黒い内は、お前のようなドブネズミに出くわす事なんざないと思っていたが」
 チロリアンはそう言って牙をむき、低く鋭い鳴き声で主人を威嚇した。これは夢じゃない、だってもしこれが夢なら、この臨場感をどう説明する?!小さなネズミの姿になってしまった自分に今にも飛びかからんとしている飼い猫を前に、ペリエルは両手を胸の前で握り込み祈るような格好で震えながら考えを改めた。噛み付かれ、飲み込まれてしまったら、永遠に覚めない夢の中だ。豆粒のような太さの喉から、あらん限りの声量で必死に飼い猫に訴えた。
「チロリアン!私だ!私の声がお前にも聞こえているだろう?!長年連れ添ってきたお前には、私の言葉が理解出来ている、そうだよね?!」
 チロリアンは目を細め、椅子の座面で震えている目の前の小さなネズミを品定めするように見た。
「確かに、人間の言語で語りかけてきた動物はお前が初めてだ。人間以外の動物では、言葉を理解出来るのは自分だけかと思っていたよ。お前が世にも珍しい、言葉の通じるネズミであることは分かった、少しばかり出来が良い事は認めてやろう。ダビズ婆さんに捕まらず、私の主人の書斎に入ってこれたという事は、相当悪知恵が働くに違いないからな。だが、そんな薄汚れたナリで、私の主人の名を語ろうとは、なんと愚かな。一口に殺して、主人に見せてやるとしよう、このネズミは言葉を理解出来る珍しいネズミで、こいつをワタクシめがとっ捕まえたから褒めてくれと言ってね。しかし私がそういう思いでニャーと鳴いても、私の主人に私の言葉が理解された試しは一度とて無いわけだが」
 ペリエルは自分より何倍も大きな体の飼い猫が、窓から差し込む光を逆光にしているせいで大きな一つの黒い影の固まりとなり、そこに爛々と光る一対のガラス玉のような目でこちらを見て、今にも襲いかからんとしている姿を前に戦慄を覚え、全身の毛を逆立たせた。ガクガクと震える小枝のような細い足に力を入れて踏みとどまる。もし言葉を間違えたら、言葉通り私の飼い猫は、私を一口で噛み殺してしまうに違いない、そんな思いがペリエルを体の芯から怯えさせる。ペリエルは組んだ両手の指同士を硬く握り締めて言った。
「私の可愛いチロリアン、このメガネに見覚えがあるはずだよ、書斎で仕事をする間、必ず私がかけているメガネだ。お前をこの家に連れてきて十年経つが、毎日一緒にいる、主人であるこの私のメガネを、お前が見間違えるはずはないだろう?」
 チロリアンは椅子の上で震えているネズミのかけている小さなメガネを見つめていよいよ頭を悩ませた。確かにそのメガネは、彼の見知ったフレームの薄い、真ん丸の形が対になった、主人の瞳の色と同じヘーゼルカラーの、彼女のメガネにそっくりだった。全く同じデザインの、精巧なミニチュアのメガネを用意出来るほど、このネズミの頭は賢いのだろうか。それに。
 チロリアンはメガネの上の、カールしたブロンドの前髪をまじまじと見つめた。体全体の毛色は太陽の光を遮る厚い雨雲のような、青味の強いグレーだが、両耳の間にふんわりと立ち上がっている前髪部分だけは、主人の髪の色と同じように金色に輝いている。卓上に腕を折り眠ってしまった主人が、忽然と姿を消してしまったことも、チロリアンには少し不自然に思えていた。しかしながら主人が唐突に数日部屋を留守にするのは全くない出来事ではない、チロリアンはそう思い直しながら、目の前のネズミを睨みつけた。

「もっと証拠を見せろ」
 チロリアンはピュンとテーブルから降り、椅子の背後をまわって半周すると、再び机の上に飛び乗った。ペリエルは容易に包囲出来ると言わんばかりのその行動にさらに恐怖を募らせた。チロリアンはペリエルを見下ろしながら鋭く睨みつけ、いつでも飛びかかれるよう肩に力を入れ体をしならせた。
 ペリエルは震えながら、辺りをキョロキョロと見回した。どう説明すればいいのか分からない。手詰まりになったせいで小さな体に張り詰めていた緊張が切れ、両手でそのブロンドカラーの頭の毛を天辺からワシャワシャと掻きむしり、その後指先をメガネの下に差し込むと目頭を抑えつけながら右足のつま先をトントントンとせわしなく打ち付け貧乏揺すりをしている。その姿が、机に向かい原稿用紙の上を滑るように動いていた手がはたと止まった後の、主人の仕草にそっくりで、チロリアンは大きな目をさらに見開き座面の上のネズミをじっと見ると、臨戦態勢でいた体の力を少し抜いた。
「もしかして、本当に?」

「そうだ!」
 メガネをかけたネズミは手をポンと打つと、再び少し震えながら上目遣いに、「私を食べないと、約束してくれるなら、証拠を見せるよ」と言ってチロリアンを見つめた。彼はため息を漏らして、「私がネズミなんて下の下の生き物を、弄ぶ以外の目的で殺すワケがないだろう」と言った。ペリエルは頷いて、「お前は食い物にとてもうるさい猫だからね。おやつのクッキーは大好きだけど、食事の時は乾物は絶対口にしないんだから!ペティ・ロイヤル社の瓶詰めか、缶詰しか口にしないくらいだ」と微笑んだ。
チロリアンは冷静な面持ちでニコリともせず、じっと目下のネズミを見つめ返した。そのくらいの情報は、どこからか忍び込んだ先の穴から数日覗いていればネズミだろうとイタチだろうと分かる話だ。あえてそのような自分の食事の趣向をこれ見よがしに語って聞かせるのが、逆に疑わしい。チロリアンは再び目を細めて目下のネズミを睨みつけた。
「約束なら、してやる。さっさと証拠を見せてみろ。その代わりそれが不十分であったなら、私の主人の名を汚した罰により、お前を一息に噛み殺してやる」
 ペリエルは弱まることのない飼い猫からの威嚇にふるふると震えながら、「わ、分かった」と言い小さく頷いた。そして、「お前の尻尾を、こちらへ」と言い手招きした。
 チロリアンは言われた通りそのふっくらとした立派な尻尾を座面に向けて垂らした。ネズミのペリエルは毛足の長い尻尾の束を少量しっかりと掴み、それを伝って身軽によじ登るとチロリアンの背中にまわった。そしてフカフカの毛の中に小さな体を潜り込ませると、肩と肩の間辺りで止まり、力を込めて両腕でもみ上げた。
「うわっ、やっやめろ!何をする、くすぐったいだろ!やめろって!」
チロリアンは背中に埋まったままのネズミを振り払おうと、体を捩り毛を逆立たせ背中を卓上にこすりつけた。ペリエルは上下左右がぐるんぐるんと揺れる衝撃に目を回し、「チロ、ストップ!止めるからストップ!」と叫んだ。チロリアンが体をゆするのを止めるとネズミは毛の間からよろよろと出てきて、机の上にバタンと倒れた。
「何のつもりだ!」
「ちょっとだけ待って、目が回ったよ、とにかく落ち着いて」
「ふざけたマネを、それとも今すぐ咬み殺されたいのか!」
 ペリエルは気性の荒い物言いに怯えるとさっと体を起こして必死に訴えた。
「お前はそこを強く指で揉まれる時はいつでも、とても気持ちよさそうにするじゃないか」
 チロリアンは眉をひそめ、「そんな小さな手で表皮と毛をいくらほじくられたって、こそばゆいだけでちっとも気持ち良くなんかない」と半ばあきれて言った。
「そこがダメなら・・・」
 ペリエルはそう言うより早くちょろちょろっとチロリアンの頭の天辺へ移動し、またも毛の中へ潜り込もうとした。チロリアンはその素早い動きに対応しきれないまま、何をしようとしているかが明らかな行為にギョッとして、「分かった!分かったからやめてくれ!」とニャーと声を張り上げた。あちこちくすぐられるなんて、引っぱたかれるよりずっと耐え難い苦しみだった。
 ペリエルはチロリアンの頭部から出てきて彼を見下ろすと、「やっと信じてくれたんだね、チロリアン!」と歓喜の声を上げて小さな両腕を広げ、彼の頭部をぎゅっと全身で抱きしめた。チロリアンは頭の天辺にまでかゆみが走ってのたうち回らずに済んだ事に安堵し、ため息を漏らした。
「信じてなどいない。だが、今はお前を咬み殺すのだけは止めてやる」
「ありがとう、チロ」
 ペリエルはとりあえず繋がった命に表情を緩めると、また直ぐに頭を働かせた。
「こうなってしまった以上、とり急いでやるべき事がある」
ペリエルは小さな体をまたちょろちょろっと移動させて、電話機のスピーカーフォンのボタンに勢いよく飛び乗った。それは目にも止まらぬ素早い動きだった。即座に拡声された大きな応答の声が二人の周囲に響き渡った。
「お呼びですか」
 使用人の長であるダビズが電話に出た。彼女はちょうどチロリアンを家に連れてきた年に雇われた、現在初老の婦人である。
ネズミに姿を変えてしまったが、とりあえずダビズに一言断りを入れておけば騒ぎにはならないだろう。ペリエルは電話に応答したダビズ婦人に早口にまくしたてた。
「急ぎですまないけど、しばらくまた旅行へ出かけるわ。直ぐ出発しないとフライトに間に合わないの。必要な物は全て現地で調達する。心配は無用よ。いつ帰るかは今のところ決めていないのだけれど、その間、家とチロリアンをよろしくね」
 ダビズは多くを問う事なく、ただ「分かりました」とだけ答えた。
「またいつもの気まぐれですね。これだから、小説家なんて変人は、自分の都合で、思いついたまま、身勝手な事をして」
「悪いけど、いつもの小言を聞いている時間もないの、ああ大変だ、もう行かないと。くれぐれもチロリアンの世話を頼むわね、ダビズ。ああ、それと、少し多めに餌を用意してやって」
「ペリエル様、ところでお声が少し小さくてかすれていらっしゃるような。甲高いというか、もしや体調がお悪いのでは?」
「だっ、大丈夫、少し喉がいがらっぽいだけ、何一つ心配いらないわ、有難う。もう行かなくちゃ!それじゃあ、後は頼むわね」
「かしこまりました」
 スピーカーフォンのボタンから飛び降りると、ペリエルはチロリアンの目の前で大きく息を吐き出した。
「あーー、これからどうしよう」
ペリエルは独り言を言いながら二本の足で立ち、腕組みをしてせわしなく動き回った。チロリアンは電話を終えたペリエルを大きな目を見開いて見つめ、まじまじとその視線を目の前のどぶネズミへ向けた。
「お前、人間とも言葉を通じ合わせられるんだな、こいつはたまげた。ということは、お前は・・・」
「少しは信じる気になったかい?」
 チョロチョロと行ったり来たりを繰り返していたペリエルは足を止め、チロリアンに微笑んで見せようとした。チロリアンが「いや、そうではなくて」と言いかけたその時、近づいてくる足音をペリエルのいつもより大きな放射状に広がる2つの耳が拾い上げた。ペリエルは体をびくつかせると、「ごめん、チロリアン!」と言って再びチロリアンの毛の中に潜り込んだ。

 扉を開けてダビズ婦人が顔を出した。背が高く痩せており、細い鷲鼻とこけた頬は仕事に厳しい彼女の気質を物言わぬ形で体現していた。六十代の初老の婦人だが、頭ははっきりしているし体力も申し分ないので、彼女の方から辞めたいと申し出があるまでは任せようというのが夫の考えだった。エプロンの前で両手を組んで、ゆっくりと部屋に入ってくる。
(わわっ!)
 ペリエルの小さな体が大きな振動に揺さぶられた。ペリエルはチロリアンの長い毛の毛根近くをしっかり両手で握り締めながら、ロデオのように上下に跳ねる体に必死でしがみついた。
「ニャー」
 チロリアンはダビズ婦人に近づくと、婦人の細い足首に、しなやかな動きで背骨を頭から尻尾まで隙間なくこすりつけて挨拶した。婦人はいったん立ち止まり、チロリアンの毛が撫で付けられた辺りを身をかがめ手ではらうと部屋全体を見回し、「何もかも、放り出したままだわ、まったく」と言いながら窓際の仕事机へ近づいた。そしてその下、椅子の足の側に無造作に落ちている寝巻きのワンピースを手で拾い上げ腕にかけた。
「まぁ、下着まで!」
 ダビズ婦人はワンピースから抜け落ちたノースリーブのアンダーシャツと下着を、手でつまみ上げるようにして拾うとワンピースの中に包むようにして持った。
「旅行に行くなら行くで、部屋を整えてから出ればいいものを。キレイに整頓してから出掛けるとせっかく高まった気持ちが削がれるなどとふざけたことを以前仰っていたが、心ぬかりのない状態で出発した方が、気持ちなら良いはずだと、あれほど口うるさく説得したというのに。これだから小説家なんて、地に足のつかない、いい加減な職業は」
 ダビズはそう言うなりテーブルの上のペンをペン立てに戻したが、首を振りため息をもらして手を止めた。それ以上のことをする気は起きなかったようだった。置かれたままの本はそのままに、しかしさほど乱れていないベッドの様子に首を傾げると、そのまま部屋を出ていこうとした。ドアの前でダビズはチロリアンを振り返ると、「私はネコは嫌いだよ。餌だけは時間通りやるけど、散らかすのだけはおよし」と言い残しドアを閉めて出て行った。

 チロリアンの長い毛をより分け、中からぷはっと顔をだすと、ペリエルは出来るだけ大きな声で「チロリアン!」と叫んだ。もちろんネズミがどれだけ大きな声を張り上げても、ドアの外にまで聞こえるようなことはない。
「何だ」
 チロリアンは面白そうに答えると、身の毛をブルブルっと震わせてペリエルを揺すり落とした。コロンとでんぐり返しをしながら出てきたペリエルは即座に二本の足で立ち、腰に手をあてて仁王立ちになると、チロリアンを小さなメガネの奥から睨みつけた。チロリアンはにやりとして、フフと笑った。
「ダビズに背中を擦りつけるなんて!あんまりじゃないか!あの時私がダビズに見つかっていたら、召使い総動員で家中ホウキを片手に追い掛け回されていたかもしれないのに!」
「そうされればいいと思って、したのだが?」
 チロリアンは不敵に笑って見せた。ペリエルは頭に血が上りまた叫んだ。
「私はお前の主人だぞ?!主人である私に、何という無礼な計らいを!」
「私はお前がご主人様だなってこれっぽちも思っていないさ。ものすごく頭はいいようだが、しかしながらただの薄汚いドブネズミだ。主人は恐らく私が眠っているうちに、また旅へお出かけになったのだ、お前もそれを知っていたのだろう。なんせ主人が突然お出かけになるのは何の珍しい話でもないからな。メガネを用意して、髪の色まで一部抜いて、タイミングを計らってこうして出てくるとは、大変狡猾で汚いやり口だ。主人が不在の間、悠々と飯や寝床にあずかるいい方法を思いついたのだな。浅はかな魂胆の為に、それ以上私のご主人様の名を汚すというなら、その薄汚い毛とニセの金髪を、真っ赤に染め直してやるからな」
「ああ!何と恩知らずな!お前がここまで疑り深いネコとは、夢にも思わなかったよ!この私が、私であると分からないなんて!いつも私にぴったり寄り添うように擦り寄ってきては、膝の上で従順に、その雨雲のようなグレーの長い髪を撫でられるがままになっていたというのに!一日のほとんどの時間この大きな屋敷に一人きりでいる私を、労わるかのように側にいてくれたというのに!私はお前がもっと気持ちの優しいネコだと、人の情けや慈しみの感情を理解してくれているネコだと、ずっと思っていた、そうと信じていたよ。けれどそれが、思い過ごしだったなんて!私を私とも見抜けず、困り果てた主人に対して、何て非情で、ひどい仕打ちを!」
 ペリエルはそう嘆き叫ぶと目頭をグリグリと拭った。チロリアンはペリエルの前で姿勢を低くしじっと目の前のネズミを見つめた。大きな瞳で見つめられると、ペリエルは本能的な喰われるという畏怖で全身の毛が逆立ち、一歩後じさった。明るい日中のネコの目は黒目が細まり、その眼光の鋭さは一層強まっていた。
 チロリアンは真面目な表情で、ニコリともせずにペリエルをじっと凝視した。確かに、良く真似ている。チロリアンはそう思い直した。動きや言動に関して言えば、主人にそっくりであることは認めざるを得なかった。じっと黙っていたかと思えば、感情的になると封を切ったように大きな声で喋り出す所も、よく研究しているようだ。緻密な癖まで真似るとは、なんと頭のキレるドブネズミ。だが、もしも、ひょっとしたとして。
チロリアンは万が一のことを考えた。もしこの薄汚いネズミが、本当に私のご主人様であったとしたら。優しさと愛おしさを指先に込めているかのように、力を加えすぎず、自分の気持ちの良い場所を逐一確認するように、少し寂しさを含んだ儚げな笑顔を向け、毛をなで上げる、私の大切なペリエル様であったとしたら。
 チロリアンはじっと疑り深く見つめたまま、瞳を潤ませ訴えるように睨みつけてきている小さなネズミに語りかけた。
「お前が私のご主人様であると、認めた訳ではない。だが、もし万が一、お前が私のご主人様であったとして、どうしたら元の姿に戻るのか、知っているか」
 ネズミは途端に頼りない表情になり、眉間を持ち上げ口を小さく開いた。その場に座り込み、腕を組んで床を見つめた。そして少しためらいながら、諦めたような勢いのない声で、解決策を口にした。ネズミ自身、その解決策に半信半疑である様子が、チロリアンにも見て取れた。
「古今東西、全世界、どの物語の中でも、いわゆる人知を超えた力の影響を拭い去るには、方法は一つと決まっているんだ」
「それは何だ」
 ペリエルは言いにくそうに答えた。「真実の愛、というやつさ」
「真実、までは分かる。嘘偽りないという意味だろう。しかし愛というのは、一体何だ」
「何だ、と言われても」
 ペリエルは言葉を濁した。とっくの昔に冷えてしまっている夫との関係も、仕事で側にいてくれるだけのダビズや使用人との関係も、愛が無いとは言わないが、具体的な例には成り得ないようにペリエルは思った。それにこのような特異な現象が起きた場合、それが解決される為には特別な愛というのが必要になるのだ、心の底から信頼し、信頼されるような、相互の愛というのが。ペリエルは思い悩みながらも口を開いた。
「しいて言うなら」
 ペリエルは真っ直ぐにチロリアンを見つめた。ネズミに姿を変えたその時のペリエルからすれば、彼を正面から見つめるというのはとても勇気の必要とされる行為だった。
「しいて具体例を挙げるなら、お前がいつも私に与えてくれていたモノ、の事かな」
「それは主人へ、私が、という話か。だったら尚の事、検討もつかないな。私は何もかも与えて貰う側で、主人に何かを与えた事など、ただの一度もない、私の方から何かをお与え出来るような立場に立った事など、一度とて」
「愛というのは、物質としてそこにあるものとは、恐らく等しくならない物なんだ、物を与えたり与えられたりしたからといって得られるモノとはまた違うんだよ。愛を説明しろというのは、難題だよ、チロリアン。好む好まざるに関わらず、良い悪いに関わらず、全てが愛だと言う人もいれば、国語辞典の『愛』の説明には、愛は可愛がり、慈しみ、親しみしたう心と、おおよそそのような文面が書いてある。だけど、私がお前にそれは何かと説明するとしたらねぇ、どういうべきだろうね。愛というのは、一人ぼっちの寂しい心を、温かさで埋めるもの、とでもいうのかな。心からの好意的な気持ちを、自分が受け取っているのが分かる時にはそこに在ると感じられるモノとでも言うかな。とても感覚的な事だから、ネコであるチロにはなおさら、難しいかもしれない」
 ペリエルはそう言って微笑むと少し肩の力を抜いた。組んでいた両腕を後ろに着いて楽な姿勢をとった。しかしリラックス出来たのも束の間、チロリアンは真面目な表情を崩さぬまま、じりじりとペリエルににじり寄った。ペリエルは怖くなり、ついた腕を交互に動かして体を後ろに少しずつずらし後ずさった。
「その『愛』があれば、お前が万が一ご主人様であったとしての話だが、ご主人様の姿は元に戻るというのか」
「うーん、絶対とは決して言えないけれど。しかしながら、どんなファンタジーにも必ず存在する、『お約束の方法』っていうのがあってね」
 ペリエルは言葉を濁した。するとペリエルの飼い猫は口を突然カッと開いて、彼女に「早く言え」と脅した。ペリエルは自分などゆうに一口で飲み込んでしまえそうな大きく開かれた口と鋭く尖った牙を前に、座ったまま腰を抜かしそうになった。

「キ、キスをするんだよ」
 ペリエルがそう言うと、チロリアンは開けていた口を戻して言った。
「なんだ、そんな事か。どうして言い渋るのか、さっぱり分からんが、試しにやってみればいいんだろう」
 チロリアンはそう言うとペリエルにさらに近づいた。ペリエルは座ったままさらに後じさって、「待ってくれ、お前の方から来られると、私は喰われるんじゃないかって怖いから、私からさせてくれないか」
「何でもいい、早くしろ」
「そう急かすもんじゃない。あと、その、目を閉じてくれないか。それから、チロの方も、私がキスをする時、精一杯私を愛おしいと、心から思って」
「要望が多いな。言われた通りにやってやるが、お前がご主人様に姿を変えなかった時は、分かっているな」
「そんなに上手くいくわけないとは思うけど、とりあえず、試してみようか」
 チロリアンは首を床に寝そべらせて、目を閉じた。ペリエルは恐る恐る、チロリアンの毛だらけの口元に、チュッと小さく口づけをした。
 しかししばらく様子を見てみても、何も起こらない。チロリアンはゆっくりと目を開き、ペリエルは恐怖に体を縮こませた。チロリアンがもったいぶるように肩に力を入れ直し起き上がりながら、十秒前からのカウントダウンを始める。ペリエルはガクガクと震えだした足を抑えるように、両手を祈るような形に前で組み合わせた。
「十秒も待ってやったが、お前はネズミのままじゃないか。この嘘つきドブネズミめが!!」
 ペリエルは全身の毛を逆立てて震え上がった。チロリアンの大きな目が鋭さを増してペリエルに照準を合わせている。そこにニヒルな笑顔が浮かぶと、ペリエルはいよいよ生きている心地がしなくなってきていた。
「ペリエル様の名にかけて、私がお前をひと思いに殺してやるから覚悟しろ。その後、ダビズ婦人にお前を進呈してやる、珍しく褒めてもらえるに違いないからな」
「ちょ、ちょっと!ちょっと待ってちょうだい!誰もそんな簡単に元に戻れたら、苦労しないよ!あと、大事な事実が一つある。私はペリエルだ、これは真実なんだ!チロに信じてもらえなかったら、私を嘘偽りのない愛で、元に戻してくれる生き物なんて、他に誰も・・・」
 ペリエルはそう泣き声で言うと、座り込み、顔を膝に埋めた。チロリアンはじっと固まって動かなくなってしまったネズミを見下ろし、冷静に思い直した。確かにただのネズミが、膝を抱えて座る姿など未だかつて目にしたことがない。
 あと一つ、チロリアンには不思議でならない事があった。当たり前のようにこのネズミと言葉を交わしながらだんだんと気づいた事だが、チロリアン自身はニャーとしか鳴いていないにも関わらず、このネズミは自分の鳴き声を言葉に置換された状態で理解し、それに応答している。そして何より、チューチューという鳴き声でなくこのネズミは、ダビズとの電話でもそうだが、人間の言葉でもって会話をしているのだ。
チロリアンにとってこれは驚くべき事態だった。猫同士だと、声色や体の姿勢、表情で、威嚇や求愛の情を示し合う以外のやり取りを必要としない。当然ながら、言葉のやりとりなど皆無だった。チロリアンにとって不思議だったのは、自分が言葉を使ったやり取りをした事がないのに、目の前のネズミは自分の意思を、ニャーと鳴くその鳴き声に、言葉で置換された意思を読み取っている、これが何よりの驚きだった。小説家である主人に語りかけられる事で、自分はいつの間にか、言葉を覚えたのだろうか。暇さえあれば語りかけ、時には主人が感銘を受けた小説の一節を読み聞かせてくれる、そのせいで自分は人間の言葉を覚え、自然と感情や意志を言葉に置換する方法を習得したのだろうか。自分が言葉を使っているのだと、目の前のネズミが現れたことで初めて気づかされ、言葉というものを聞くだけでなく自分が使っていると認識したことは、チロリアンにとってはとても奇妙かつ初めての感覚だった。
「なぁ」チロリアンはじっとうずくまっているペリエルに静かな口調で尋ねた。
「あまりに自然に言葉が通じるから、気づかなかったんだが。ダビズとの電話の時も思ったんだが、お前は言葉を、人間の言葉を喋っているのだな。それと、私は今、多分ニャーとしか鳴いていないと思うのだが、お前は私の鳴き声を、言葉で読みとって理解しているのだな?」
 チロリアンが姿勢を低くしてそう言うと、ペリエルは顔を上げて言った。
「人間様の脳を、お舐めでないよ。それに私は小説家だ。そしてお前は小説家の愛する猫だ。お前の中に、感情を言葉で置き換えて伝える力が次第に備わり身についていたとて、何の不思議があるというのか」
 まあ今は、こんなにも小さなネズミで、その脳の体積は百万分の一ほどしかないかもしれないが、と言ってペリエルは笑った。
「お前にとってよほど言葉という意思疎通のツールが、自然に日常にあったという事だよ、私がこんな体になってお前の前に現れたことで、その事実に今気付いたというだけだ、チロリアン。これでもまだ私が、その辺りの地下用水路に沢山いる、ドブネズミと同じだって言うのかい」
「ふうん」
 ペリエルが皮肉を込めてそう言うと、チロリアンは目の前のネズミを興味深そうに見つめた。
「主人が旅から帰ってくるまでの間くらいなら、生かしておいてやってもいいだろう」
 ペリエルはメガネの奥でうるうると瞳を揺らした。
「じゃあ、少しは信じてくれたんだね、チロリアン」
「誰が信じるか、汚いドブネズミめ。狡猾な分、なおさら汚いわ」
 チロリアンは眼光を鋭く光らせ、目を大きく見開いた。ペリエルの体はその射るような視線に自動的に震えだすと、両手を再び祈るような形に組んで体を縮こませた。何と言っても目の前にいるのは、飼い猫とはいえ自分を一口で丸呑みにしてしまえる、ネズミの天敵であるネコだ。本能的な恐怖に縛られ、ペリエルの体は内震えるばかりだった。
「ご主人様が旅からお戻りになり次第、すぐ噛み付いてやる。それまでの命と思え。それまでの間なら、この家からずっと遠くへ逃げてもかまわない。まぁ逃げた時点で、お前はニセモノ。一度でも主人の名を語ったお前を、私が生かしておくと思うなよ」
 チロリアンはそう言うとフーーーッと低く鳴いてペリエルを威嚇した。ペリエルは小さな体をより小さく縮こませて、「わ、分かった」と答えた。
「とにかく、元に戻りさえすればいいんだから、心配する必要はないさ。私も、お前もね」
 ペリエルはそう言うと、気持ちを定かに持とうとして半ば無理やりに、ぎこちなく笑った。

 一日が過ぎ、一週間が過ぎ、再び新しい週が明けても、主人であるペリエルはチロリアンの前に姿を現さなかった。それもそのはず、ペリエルはネズミの姿でチロリアンの前にずっといるのである。
 朝晩の食事と三時のお八つの3回、ダビズがペリエルの部屋へやって来てはチロリアンに餌を用意した。その餌をペリエルネズミに少し分けてやると、チロリアンは目の前のネズミの姿をじっと観察した。ネズミは彼の餌をとても美味しそうに、にっこりと微笑みを浮かべたような顔つきでムチャクチャと口に含みよく食べた。
ペリエルは最初こそ少し抵抗を感じたものの、チロリアンの餌を食べて日々食事には満足することが出来た。チロリアンは食事の他にも、三時を過ぎたころに出されるお八つのクッキーを少量食べ残し、ペリエルに分けてくれる。2匹の体の大きさは十数倍は違うので、ペリエルにはごく少量の餌を分けてもらうだけで十分過ぎるほどお腹が一杯になった。
(最初はひどい脅され方をして、実は意地悪なネコだったのかとひどく落胆したけれど、やっぱり私の愛猫だ。まるで私の世話でもしているかのように、当たり前に私の分を分けてくれる。口で言うよりずっと情が深いんだ)
 ペリエルは腰をドアの前の床に落ち着けて、顔を突き合わせてチロリアンと食事をした。ペリエルが満足そうに微笑むと、チロリアンは我関せずと黙々と食事を続けた。万が一ダビズがドアを開けた時には逃げられるようにと思案し、ドアの前に腰を下ろして廊下の音に耳をそばだたせながら食事を続けた。二匹は食事を済ませると、チロリアンは陽のあたる床の絨毯の上で寝転がり毛づくろいをし、ペリエルは本を読み返して時を過ごした。
 テーブルへチョロチョロとよじ登り、そこから本棚へ、背表紙を上り隙間から本の後ろ側へ回ると、ペリエルは力を込めて本を押し出し、バサバサと床に落とした。散らばり落ちた本から本へ、ペリエルは楽しそうに移動しながら、開かれた本の上に寝そべり両腕をついて、大きな文字を少しずつ追いかけるようにして文章を読みふけった。チロリアンは時にはペリエルの仕事机の上から彼女の様子を眺めて、呆れたように体を卓上にぺたりとつけると顔を自分の毛の中に埋めた。今日もまたダビズ婦人に、部屋を散らかすなと怒られるのだ、この私が。チロリアンはダビズに叱られる度、頭を垂れ、大人しく耐え忍んだ。ダビズも猫のやる事と、半狂乱になって叱るような事はなかった。一通りチロリアンを叱った後は「しかしながら、飼い主に似たのだから、お前に全ての責任はあるまい」と言うと、落ちた本を拾っては戻して、それが終わると静かに部屋を出て行った。ペリエルはチェストの下からその様子を覗き見て、心の中ではダビズに自分がそれをやった事、自分がネズミに姿を変えてしまった事に気付いて欲しいと願った。しかしダビズがチェストの下のネズミに気付くことはなかった。彼女が廊下に出てしまうとペリエルは不機嫌そうなチロリアンをなだめながら謝るのだった。

 机の上で日光に当たりながら窓の外を眺めているのだが、主人のペリエルは一向に姿を現さない。昼であれ夜であれ、主人の旦那様が時折帰ってくるが、彼が帰宅中主人の部屋に顔を出すことはなかった。短い時など、一時間と経たないうちにまたすぐ外へ出かけていってしまう。
 チロリアンは卓上から、床に落とした本を読みあさっているネズミに暇つぶしを兼ねて意見を求めてみた。
「いつも思っていたんだが、どうして主人と旦那様は、一緒に家で時間をお過ごしになることがないんだろう。お二人はご夫婦なのに。この家の事を調べ尽くしたお前の解釈はどうだ」
「他所に囲っている女が、幾らでもいるんだよ。子供だって、私の知る限り五人はいる」
「へぇ。猫だったら特別珍しくもない話だが。ご主人様はそれでいいんだろうか」
「子供を産めない、女の役割を果たせない私が、彼が誰と一緒にいようと、文句を言える立場にあるわけがない」
「へぇ」
 チロリアンは紙面に視線を落としたままムッとした表情で返答するネズミに、すっかり感心して言った。
「お前は私の主人の事を、あれやこれやと込み入った内容まで、本当に良く知っているのだな、私ですら知りえない事を」
 ペリエルは皮肉交じりにため息を荒く吐き出して言った。
「そりゃあ、もう!出来たら知りたくなんてなかった、っていうくらい、詳細にね!」
「ふうん」
 適当な返事をするチロリアンをよそに、ペリエルは探偵を雇ってマッシュウィルの女性関係を調べた時の事を思い出し、唇を強く噛んだ。それはそうと鋭さを増した小さな歯の力は、ペリエルが思っていた以上に強靭なのでもちろん力加減をした。食事中に勢い余って手まで口に入れたら、とんでもなく痛かった時の事をよくよく覚えていた。
「嫌なら嫌と、言えばいいのに、何故言わないのだろう?」
 チロリアンがそう言うとペリエルは首を横に振り、ため息を吐き出した。
「お前のように毛むくじゃらの生き物なら、気に入らなければ声の限りに吠えたり、食い足りなければ隣の家の猫のエサを横取りしてしまえばいいかもしれないが、人類はそうはいかないんだよ。推し量る、なんて、食べて遊んでいるだけのお前には必要ないだろうけど、人には自分の感情より相手の為を思って、言わない行動に移さないという決断をする事が、山とあるんだ。それが理性という、人類が進化の過程で手に入れたツールだよ」
 チロリアンは机の端から垂らしたままの、ふんわりとした長い尻尾をゆらゆらと揺らしながら、熱心に本を読んでいるネズミの姿を見下ろして、ぼそりと呟いた。
「言葉を持っていても、沢山の物にかこまれていても、本当には自由に出来ないなんて、窮屈でしかないな」
「お前の言う自由というのが、野山を駆け回り捕食の対象を食いあさる事を言うのなら、それをあえてしない人類は、お前にとっては窮屈だろうね」
「望まない事態を、理性でもって受け入れるという不自由は、窮屈だろう」
「それでもそれを持って人生を継続するしかない現実だって、あるんだよ」
 ペリエルは本を読む手を少し止めて、また歯を加減して食いしばった。チロリアンはふーんと気のない相槌を打った後で言った。
「人間て動物は、寂しくて、可哀想な生き物だよな」
 チロリアンはネズミに同調されることを予期してそう言った。本当にしたい事、言わば本能的な欲求を、理性という判断能力で捻じ曲げ、抑え付けなくてはいけない唯一の哺乳類だ。「そうだな、全くだよ」というような返答が返ってくると思っていたチロリアンは、その直後に「寂しい、可哀想、ですって?!」と言って寝そべっていた体をガバッと起こしてしゃべくり始めたネズミの姿に唖然とすることになった。

「お前が私を、可哀想だと思っていたなんて!ガッカリだよ、チロリアン!生きていて、寂しくないなんて生き物は、一人、いや、一匹だっているはずがないんだ、そうだろう?!」
 ペリエルは頭を横に振り、ため息を吐き出した。眉間にシワを寄せて立ち上がると、つま先を絨毯にタンタンと打ち付け腕を組んで、チロリアンを見上げながら睨んだ。あまりにもあからさまに、腹立たしそうにしている。
「私は、他人様に可哀想がられるのが、一番キライなんだ、笑われるのもいい、馬鹿にされるのもいい、だけど可哀想、ですって!百パーセント見下してる証拠じゃないか!だけど、本当にガッカリだよ!!何よりも、他の誰に可哀想がられても、私の痛みを十分に分かっていると信じていたお前にだけは、そう思っていて欲しくなかった!」
 ペリエルはつぶらな瞳にじんわりと涙がにじみ出てくるのを必死に堪えた。チロリアンは小さなドブネズミが立腹する姿を見て、少し可笑しみを感じた。
「随分とプライドの高いネズミだな。それに私は、人間が寂しい、と言ったのに。本気で人間の振りをしているのかい、お前は本当に、そんじょそこらのネズミではないな」
 ペリエルは未だに自分を嘘つきのネズミだと思い込んでいるチロリアンの言葉を無視して、噛み付くように言った。
「だったらお前は、寂しい生き物でないなんて言えるかい?チロリアン」
「私には、ご主人様がいる。待つ人が、私を慈しんでくれる相手がいるんだ。主人と共に在る、これは偽りなく私の意志だ、だから寂しくなどない」
「ハン、今のお前は、一匹のドブネズミと部屋にいるだけだろう。お前の主人が、これからもずっと、お前の前に姿を現さなかったらどうする?」
 ペリエルがそう皮肉と意地悪な気持ちを込めて尋ねると、チロリアンは口を閉ざして黙った。ペリエルは、はっと良心の呵責を感じ、「もうこの話はよそう。神経がささくれ立つ以外の決着点がないからね。私の事は放っておいていいから、いつものように外へ出て、他の猫とでも遊んでおいで。私がネズミに姿を変えてから、ずっと部屋にこもりっきりだろう?」
 チロリアンはゆっくりと首を横に振った。「お前はその隙を突いて、逃げ出すに違いない」
「逃げる?一体何処へ?ここは私の家だぞ」
「まだ言い張るのか、執念深いヤツだな。いつボロを出すかと、見張っているのに」
 ペリエルは絶句し、言葉を閉ざした。チロリアンはしかしながら、主人の癖を真似たネズミの返答や立ち振る舞いに、実によく前調べをしたのだなと賞賛の言葉を伝えそうになっていた。けれどふと、メガネをかけたままのネズミの姿を見て、これは少しおかしいぞ、と思い当たると、ニヤリと口角を上げ、質問を投げかけた。
「おい、薄汚れたネズミ、お前が始終かけているメガネだが、小さな体になった今となっては、その本の文字だって随分大きくなって、お前には必要のない代物のはずではないのかい?どうしてかけ続けている?」
 ペリエルはため息を吐きだずと、「私は近眼なんだ」と答えた。
「文字が小さかろうが大きかろうが、手の届く範囲の物がぼやけて見えてしまってね。職業病だよ。遠くのものなら逆にはっきりと見えるんだけどね。本当に不便で困るよ、目の機能が衰えるというのは」
 ペリエルがそう答えると、チロリアンはいよいよ感心したように言った。
「なるほど。お前は私のご主人様に、本当になりきってしまっているようだ。ここまで来ると賞賛に値する。お前がもし人間であったなら、よく調べて、言葉を紡いで、小説だって書けるかもしれない。真実味のある話を即座に提供し、そうして感情移入しきった様子で立ち振るまえるほどだ、きっとご主人様にも負けないほどの、良い作家になれるに違いない」
「そりゃあまた、どうも」
 ペリエルは鼻から深くため息を吐き出して、独り言のような小さな声で答えた。
本の上に寝そべって本の続きを追ってみると、確かに目の前の文字が大きい、いや、大きすぎるなと思い直した。ペリエルはチロリアンの方を向いて言った。
「チロリアン、すまないけど、どうせ昼寝するんだったら、ここでしてくれないかい?」
 チロリアンは無言でスタッと卓上から降りると、ペリエルの側まで来た。ペリエルが小さな手で床を指差すと、彼はそこに寝そべった。ペリエルはチョロチョロっと移動して飼い猫の頭の上に寝そべると、「ああ、やっぱりこの方が読みやすい、紙面が近すぎて、読み辛かったんだ」と言い、体を彼の長い毛並みの中に埋めた。
「それに、このフカフカとした本物の毛皮のソファー、どんなに立派に仕立てたソファーより高級だ、触り心地も弾力も、全く最高だよ」

「私の頭を、簡易ソファー替わりにするな。それに、本物の毛皮なら、お前だって始終まとっているだろうが」
 チロリアンはそう冷たい口調で言いながらも、大人しくそこにじっとしていた。ペリエルは、先ほどのやり取りをさり気なく詫びるような従順な姿の彼を見下ろしながら、やっぱり本当はとても優しいんだ、さすがは私の愛猫と微笑んだ。
「お礼に、お前にもこのお話を朗読して、聞かせてあげるよ」
 ペリエルは小さな体で最初のページをめくり直すと、もう一度チロリアンの頭の上に体を落ち着けて読み始めた。チロリアンは窓から差し込む日差しと小さなネズミの僅かな体温、それに声に出して読まれる物語の、言葉が持つ音が連なるリズムに誘われ、眠りに落ちそうになっていた。ゆっくりと下がってくる瞼の重みを感じながら、意識を手放す前、チロリアンはその時いつものように直ぐそこにペリエルがいて、同じように本を読み聞かせてくれているのだと、今そうされているのだと疑いなく思った。仕事の合間の休憩中にしてくれるのと同じ声の調子、同じ静かな息遣い。ああ、ペリエル様、やっとお帰りになったのですね。チロリアンはそう思いながら心からの安堵の微笑みを浮かべ、全身の力を抜き切り絨毯にその重みを委ねると、温かな日差しの中でしばらく眠った。
 チロリアンが微かな寝息を立て始めると、ペリエルは文章を声に出して読むのを止め、飼い猫の頭を小さな手で優しく撫でた。そしてぽつりと呟いた。
「生きていくって、ずっとずっと、寂しい事だよ、チロリアン。たとえ他者とどれだけ分かり合えたと自分が感じることが出来ても、それは結局は自分の一方的な思い込みかもしれない。寂しさが埋まっていると感じられる時もあるよ、けれどそれはほんの一瞬の事だ。一人で生まれて、一人で死んでいく。双子や六つ子だって、この世を去る時には一人だ。それまでの間、ずっと寂しい。だけどだからって、それが事実だからって、四六時中俯いて生きて何になると言うんだい、寂しさに立ち向かうから、抗うように人は二本の足で前へ進んでいこうとする。寂しい事が問題じゃないんだ、それで俯いて立ち止まって、泣いてなどいられない。四足のお前だって同じだよ、勝手に他者を憐れむものじゃない」
 ペリエルがそう諌めるように呟く声を、チロリアンはまどろみの中で聞いた。
(ご主人様・・・ああ、やっぱりご主人様だ。ペリエル様は、今、ここに)
 チロリアン以外の生き物がいない部屋でたまにする、腹立たしさを隠すことなく呟く、主人の独り言だ。少し理屈っぽく、説教臭い物言いに、こみ上げるような親しみが沸き起こってくる。チロリアンにはその言葉が、頭の上に乗っているネズミから発せられているのだと、薄れかけの意識の中でも識別がついていた。
(そうだ、この言動は、指使いはまさしく。ほんの少し潤んだ瞳には、隠し様のない寂しさが覗いているのだ、何時でも。けれどその声色に、指の圧力に、溢れんばかりの優しさが込められている。この声、この感触。私でなくて、他に誰が分かるという。私の長い体毛を撫でる、慈しむように撫でつける、私のご主人、その人以外にいない。それとも、この私を欺く程に、このごく小さな生き物は、賢いというのだろうか)
 チロリアンは脳裏に、小さなネズミの姿を浮かべる。あの淵の薄いメガネも、黄金の前髪も、もしかすると、本物のご主人様の物なのでは。


 夜になり夕飯を済ませると二匹は持て余すほどの大きなベッドの上で、チロリアンは背中を丸めて寝そべり、ネズミのペリエルは腹部に出来た彼の体の窪みに背中を預けよしかかって休んだ。ペリエルはふかふかとした毛の立派なソファーに体を埋めながら、その温かみを背中に感じ、眠りに落ちるまでの時間思い出話を始めた。
「私がお前を、何気なく足を向けたペットショップで見つけた時、全身濃いグレー一色の、少し青味の強いグレーカラーの毛のお前を見た時、私は何故かメス猫だと信じて疑わなかったんだ、そしてその、彩度の薄い体毛に、カラフルな模様が沢山あしらわれた、チロリアンテープのリボンを使った首輪を付けてやったら、さぞかし可愛いだろうって、抜群の名案みたいに思い立った。それでお前を家に連れて帰って、その日中に持っていたリボンを首輪に縫い付けた。想像していた通りに良く似合って、可愛くて、それまで落ち込んでいた私の心は浮き足立ったよ。実はその日、不妊治療でかかりつけの医師に、子供は諦めた方がいいかもしれないというようなニュアンスの事を言われてね。十九歳で嫁いでから、八年かけても改善しなかった。マッシュウィルも、それまでは一緒に努力してくれたんだけれど、彼だって一緒に年をとる訳だからね。子孫をもうけるという、人が果たすべき念願を、マッシュウィルにまで諦めてもらおうなんて、それが私の願望だとしても、強要なんて出来なかったよ。行き場のない深い悲しみを、埋めたかったのかな。こんな話、知らなかっただろう?」
 チロリアンはペリエルが静かに話しかける言葉に返答しないままでいた。まだ主人の振りを続けているのかと、否定するでも、またよく真似ていると肯定するでもなく、ネズミの姿のペリエルに身を預けられ、大人しくしている。ペリエルはチロリアンのグレーカラーの毛束を少し掴み、それを愛おしそうに自分の頬に寄せた。
「それで、今よりずっと小さい体のお前をお風呂に入れた時に、私は『しまった』って困惑したよ。お前、オスだったんだよね。もう名前は決めてしまったし、それでチロリアンなんて、メスにつけるような可愛い名前をつけてしまって。聞きたいって、ずっと思ってたんだよ。お前はチロリアンという名前、嫌じゃなかったかい?」
「そんな風に、否定的に考えた事はない。目を輝かせ嬉しそうに私を連れ帰ってくれた日から、主人が決めた事に否定的な感情を持った事もなければ、他の良い名前など知らない」
 チロリアンが淡々とした口調でそう答えるのを聞くとペリエルは笑った。
「それは、良かった」
 ペリエルはそう言うと、少し流れた沈黙を遮って、手に掴んでいた毛束を握りこむとピッピッと軽く引っ張った。
「ねぇ、忘れないように少しメモをしておきたいんだけど、机の上に私を運んでくれないかい?」
 チロリアンはペリエルが背中に乗り、毛の中に潜り込むと、ベッドから降り、椅子の座面から窓際の机の上へと、体をしならせフワリと飛び乗った。チロリアンは卓上で、窓の方に丸めた背中を向けて体を落ち着けた。ペリエルはシャープペンシルを持ち上げて逆さに持つとテーブルに数回打ち付けた後、それを机に寝かせ置いて芯を短く折り手に握り込んだ。置き放しの用紙の上にシャーペンの芯で、その日の日付と「チロリアンは、名前を嫌がっていないことが分かった」という言葉を書き記した。腕を大きく動かしゆっくりと、文字を書くのは小さなペリエルの体には中々骨の折れる作業ではあったけれど、それだけを紙に書き込むと、満足そうに飼い猫のお腹の窪みに近づき、ベッドの上でしていたのと同じように長く垂れている毛に背中を寄せて暖をとると、チロリアンの顔を見つめた。
 チロリアンが無言でペリエルを見つめ返すと、ペリエルの涙腺はどういう訳でか緩み、涙が頬を伝った。心まで離れてしまったマッシュウィル、上手くいかなかった不妊治療と、孤独に耐え続けたこれまでの彼女自身の人生、ネズミの姿になってしまった今、それを振り返り、昼間に聞いた可哀想という言葉を思い出した時それまで塞いでいた感情が封を切ったように瞳から溢れ出した。瞳に涙を溜めたまま、ペリエルは微笑み、
「寂しいって、本当に悲しい事なのかな。私は寂しかったからこそ、お前を見つけた時、側にいてほしいって、思えたんだ。それは悲しい事かい?」
 ペリエルは少し俯き、チロリアンのふんわりとした毛の中に背中を擦りつけるようにして体を埋めた。全身を包み込む温もりに、言い得ぬ安心と喜びを感じる。
「こんな姿にならなかったら、お前の温かみを体全体で感じ取るなんて、出来なかったろうね。ネズミに変身するなんて、とんでもない事態に陥ってしまったと思っていたけれど、今は、私の神様に、心から感謝するよ」
 チロリアンはその時、目の前のネズミをペリエルだと本心で思った。目の前には自分のご主人様がいて、自分に身を寄せて目をつむっている。窓から差し込む月光を受けメガネの奥でキラリと光る水滴を、主人にそうするように、舌の先でなるべく優しく下からペロリと舐め上げた。顔面を大きな舌で舐られたペリエルは、体が少し浮き上がるほどの舌の力に驚きながらも、愛猫からの初めての愛撫に喜びを感じた。同時に小さな獣に姿を変えた自分を、まるで守るように体を丸め、ペリエルの体の重みごと預けさせてくれている目の前の猫から、ペリエルのこれまでの生涯のなかでも経験したことのない深い愛情で抱擁されているのが分かり、彼女の胸は熱くなった。トクントクンと微小な心臓が音を立て始めると、目尻を濡らしていた涙も引いていった。小さなメガネが目頭からずれて頭の上に移動してしまったので、唾液でベトついたレンズを撫で拭いた後それをかけ直す。ザラつきのある舌で逆立った毛並みも両手で整えたあと、顔を寄せていたチロリアンの下唇に、チュッっと小さな音を立ててキスをした。その時だった。

 ふわりと空気が膨らんで、視界が大きく揺れた。ガタリと椅子に重力がかかり、ペリエルは慌てて机の淵を、右手の指先に力を入れて掴んだ。
 はっとして、目を大きく開くと、椅子の座面にペリエルが腰掛け、座った状態のペリエルの太腿の上には、濃いグレーの、雨雲色の髪の毛の青年が、ペリエルの首に両手を絡ませて座っていた。両足はペリエルにまたがるように開き、一糸まとわぬ二人の腰は密着していた。見開かれた目の中の明るい色の瞳が、ペリエルの姿をじっと見つめながら、薄く唇を開いて放心している。ペリエルは突然の事態に息を飲んだ。ペリエルが何か言うより早く、膝の上に座り首に腕を回した青年は満面の笑顔になったかと思うと、腕をきつく締めぴったりと上半身を彼女に添わせた。そしてそのままペリエルの首筋に舌をつけ、ゆっくりと下から上へ撫で付けた。
 ペリエルは混乱しながら青年の体を反射的に押し返すと、無言で彼の行為を止めさせた。青年はペリエルをまじまじと見つめ、大きな瞳に涙を一杯に溜めた。
「ご主人様!本当に、本当に元に戻られたんですね!?」

「え、えっ?元に?お、お前は、ま、まさか、もしかしなくても」
 チロリアンテープのあしらわれた首輪が、全裸の彼の首にぽつんとかかっていた。チロリアンと思しき青年は喜びに瞳を潤ませたまま、ペリエルに再びしがみついた。
「ご主人様!ペリエル様!あのまま、どぶネズミのままの姿でなくなって、本当に良かった!」
 ペリエルが収拾のつかない驚きに言葉を失っていると、チロリアンはなおも舌をペリエルの素肌に這わせ、髪の毛をペリエルの首元に擦りつけてきた。一糸まとわぬ互いの素肌が、彼が動く度微かに擦れ合わさり、ペリエルは突然やってきた艶めかしい感情の高ぶりに目を閉じて戸惑った。チロリアンの下半身は興奮しているせいか既に硬く立ち上がっており、彼が皮膚を密着させようと腰から上半身を滑らかな動きで寄せる度、彼の引き締まった上半身と椅子の背もたれとで挟まれたペリエルの腹部の表皮に、否応なくそれが押し付けられる感触が、目を閉じていてもありありとそこに在った。ペリエルはしばらくぶりの官能の波に体を熱くし頬を赤らめた。しかしながら衣類を着用していないせいで、体を離すと互いの生まれたままの姿を目にしてしまう。ペリエルは青年を抱きとめたまま、逃げ場のない椅子からベッドへと移動すると、腰掛けて密着したままの互いの体を薄い毛布で包んだ。
 チロリアンは不思議に思い、主人の顔を見つめた。ペリエルは目のやり場に困って視線を逸らした。ペリエルの目の前にいるのは、何とも妖艶で美しい青年だ。全裸に加えて首輪が付いている彼の姿は、変態質な性行為のプレイを連想させ、直視するにはあまりにも忍びない。体を離そうにも、自分の体に自信が全く皆無なので抵抗があり、容易に彼を押しやることも出来ない。
 ペリエルが混乱し悩んでいる間にも、チロリアンはペリエルの体表を、猫の姿であった時そうしていたのと同じように、親愛の情を込めてペロペロと舐め、体毛の無くなった体を何度も擦り付けた。次第に激しくなる行為に、ペリエルの体に悪寒に似た疼きが沸き起こりビクビクと振動を始めている。人間に変身したチロリアンの筋力はペリエルが彼を抱き支えるそれを軽々と超え、繰り返し体を摺り寄せる内に自然な形でペリエルを背中からベッドに押し倒した。青年の昂ぶり硬さを増した筒状の一部が、ペリエルの陰毛の下の入口の割れ目を長い側面で上下したり、先端の突起でぐりぐりと押し撫でたりしながら刺激すると、じわじわと湧き出る互いの粘液が否応なく絡まり合う。滑りの良くなった互いの陰部は、ほんの少し角度が合ってしまえば抵抗もなく重なってしまいそうだった。ペリエルは青年の体重と腕力に押しつぶされ、身動きが取れない状態で、疼く体の内部の躍動に堪らず声を上げた。
「んンッ!チッ、チロリアン!」
 ペリエルが差し迫った声を上げると、青年はぴたりと動きを止め、下になったペリエルを覗き込むように見つめた。息が上がり、瞳を恍惚に潤ませているが、本人はそれが官能の刺激によるものだとは気付いていないようだった。
「ご主人様?」
 不思議そうに尋ねる青年に、どのように説明するべきかとペリエルは思案し目を逸らした。ペリエルは単純に、目の前の現実を正面から見つめられるほどの正気を、その時にはまだ保っていられなかった。人間の姿のチロリアンは、見た感じでは二十から二五歳の間くらいの年齢に見えた。
「お前は、本当に、私の・・・」
 ペリエルの知っている、大きな瞳がとても凛々しい愛猫と、確かに大きな瞳がややつり目気味な目の前の青年を重ねて見て、ペリエルはしかしながら信じられないという思いに戸惑っていた。小さい頃は目が大きくてとても可愛らしい子猫だったが、成長するにつれ毛足の長さもあってか、端正で品の良い姿に成長した。けれど、だからといって目の前の美しい青年が、私のチロリアンだなんて、あの凛々しくも可愛い私の愛猫だというのか。だが自分とて、少し前までネズミの姿に変身していたのだから、理解出来ない事実ではない。
(私は元に戻れたのだ、私は戻れたのだけれど)
ペリエルが元に戻る時に、チロリアンにまでその影響が出てしまったのだとペリエルは少しずつ冷静さを取り戻しながら推測した。何と言っても、つい先方まで、一ヶ月近くの間ネズミの姿でいたのだ、その上飼い猫まで変身してしまったなんていう特異な状況に、抵抗なく着いていけるはずがない。ペリエルはそんな風にして何とか気持ちを整理しようとした。
 ペリエルはまず、彼の動きを止めさせるよう説得することにした。
「チロリアン、今君が私に対してしたような行動は、人間の間は、特別な時でない限り、やってはいけないよ」
 青年の後ろ髪に手を伸ばし、優しく引き寄せると、ペリエルは自分と青年を一端落ち着かせるようにゆっくりとした動作で手を動かした。ペリエルに頭髪を優しく撫でられながら、青年はペリエルの上で力を抜き、腕の中でされるがままになった。大人しくなった青年の様子に、ペリエルは心底安堵した。青年はうっとりとした声で答えた。
「ですが、ペリエル様、私はご主人様に毎日、毎晩、髪の毛を撫でられたり、体を撫でられたり、ご主人様を舐めたり」
「だっ、だから!そういう事は、猫の時はしても良かったけど、人間同士ではダメなんだ、ダメと言ったらダメだよ、今からやってはいけないからね」
 ペリエルはそう言うと、青年を抱き抱えながら上半身を起こし、一度深呼吸をして薄かけ布団を手繰り寄せ青年に巻きつけた。なおも不思議そうにペリエルを見つめる青年を無視するように、毛布を一枚マントのように使って体を覆うと、真っ暗な部屋の中、さっと立ち上がってクローゼットへ向かった。
青年から見えない位置に立つとペリエルは毛布をぱっと落として手早く下着と簡単な衣類を身につけた。部屋着にしているタンクトップ、ショートパンツに足を通すと直ぐペリエルは焦る気持ちをそのままに、引き出しを次々と開けて、なるべくサイズの大きそうなTシャツとショートパンツを掴み、ベッドへ戻った。
 チロリアンと思しき青年は、ペリエルにぐるりと薄い布団を巻きつけられたままペリエルが戻るまで大人しく動かずにいた。
「これを着なさい」
 ペリエルが立ったまま腕を伸ばして衣類を差し出すと、青年は首を傾げて動かなかった。そうだった、この子は衣類など着用したことがないんだったと思い直すと、仕方なくペリエルは口の中に溜まった唾液を飲み込み、なるべく視線を下に落とさないようにしながら布団をそっと彼からはいだ。青年の、若さを惜しげもなくさらけだず筋肉の隆起した輪郭が、僅かな明かりの中でも確かな張りを主張するように目の前にあった。その素肌が自分に押しあたっていた感触が一瞬脳内に生々しい感触を伴って再生され、ペリエルは頬に熱が湧き上がるのを無視するように、無言で青年の腕を掴んで袖を通すと、裾を引っ張って頭部に被せ下ろした。大きめのサイズを選んだはずの、スポーティーな文字のデザインが入ったTシャツは、彼の上腕筋や胸筋の膨らみにそってその体型を浮き彫りにしていた。ペリエルは耳まで赤く染めながら、目をつぶって彼の右足に触れた。裾を持って通したはいいものの、左と右を間違えて小さく声を荒らげた。
「ああっ!もう!」
 すると目の前でされるがままになっていた青年が、明るい笑い声を上げ始めた。ペリエルは恥ずかしさと怒りで顔を真っ赤にしながら、「何が可笑しいって言うのよ?!」と顔を見合わせた。青年は潤む瞳を指で拭いながら、「そんなに、慌てなさらなくても」と笑い声を押し殺しながら呟いた。
 ペリエルはムキになって、目を開いたまま彼にショートパンツを履かせると(やはりぴったりとしたシルエットになった)立ち上がり電気をようやく点けた。互いに衣類を着用するとペリエルはようやく一息つき、ベッドに腰掛け、青年と向き合った途端、彼は満面の笑顔になった。

「ご主人様!」
 チロリアンと思しき青年が、ペリエルに飛びついてきた。上半身を力強く抱きとめる青年の頭を、混乱しながらも愛猫にそうするように優しく手で撫でながらペリエルは尋ねた。
「チロリアン、お前は間違いなく、チロリアンなんだね?」
 青年は体を少し離すと、彼女の目を見つめて「はい」と答える代わりにニャーと鳴き声を上げた。青年から発せられたその声は間違いなく、耳に覚えのあるチロリアンの鳴き声そのものだった。青年は涙で潤んだ熱っぽい視線でペリエルを見つめると、彼女をベッドの背もたれまで追い詰め、彼女の両太腿の上で体を丸めてしばらくうずくまった。しかしながら猫の体の十倍以上大きくなった体は、ペリエルの膝の上に治まるわけがない。彼は諦めたのか、頭部の髪の毛をペリエルの股間に強く擦り付けた。何度も擦りつけて満足すると、潤んだ瞳でペリエルを下から見上げ、熱い視線を送ってくる。ペリエルは顔を赤らめた。自分がネズミからやっと元に戻れた驚きを通り越して、突如現れた青年の存在を受け入れるのに頭がついていかない。
「ペリエル様・・・」
 ペリエルを見上げる青年の瞳は恍惚としており、半分開いた唇にほんの少し舌の先を覗かせながら、ウルウルと濡れた目でその先の言葉を続けないまま訴えてきた。ペリエルは宙に浮かせた両手の行き場を失っていたが、高鳴る心臓の音を感じたままそっと下ろし、右手を彼のあらわになった額に置いた。
(何て顔してるのかしら、猫の時には分かる訳もないが。しかしながら人間に変身してしまった本人が、一番分かっていないんだろうが)
 顔の表情だけでなく全身で、主人であるペリエルに、すがるように求愛の情を示していた。上半身に力を入れて胸の位置を少し上げ、足を軽く開き、ペリエルの腰に左手をまわしている。まるで体の関係を求めるような、チロリアンと思しき美少年からの訴えが、目の前にさらけ出されているのに、ペリエルは少し目眩がしそうになりながらその熱に抗うよう、目をつぶって青年に言い聞かせた。
「チロ、今お前が私に見せているような姿は、人間に変身してしまった今となっては、抑制するよう努めてちょうだい。私もまだ、やっと元の姿に戻れたばかりで、ひどく混乱しているんだ。頼むから、なるべく普通にしていてくれないか」
「普通とは、何ですか?これが私にとっては普通です!」
 チロリアンは眉を寄せて悲しげな表情を浮かべると、雨雲色の髪の毛を力いっぱいペリエルの股間に擦りつけながら体勢を変えると内太ももの素肌をベッタリと舌の腹をつけて舐め上げた。
「チロリアン!」
 青年の舌の感触に瞬時に官能する体に慌てながら、ペリエルは青年の上半身を起こすよう両手で抱き抱えた。すると青年はペリエルと向き合いながら眉をひそめ、今にも泣き出しそうな表情で彼女を見つめかえした。
「私は、ご主人様に、ご主人様の手で、いつものようにこの体を優しく撫でて欲しいだけなのです。もう随分長い間、貴方様の手の感触に触れていないというのに。一日だって耐え難いものを、一ヶ月程の間得られないまま耐え続けたのです。もしかしたらもう二度と、貴方様に触れてもらえないかもしれないという不安が、ようやく払拭された後だというのに。どうしていつものようにしていただけないのですか」
「お前の体表は、今の状態ではツルツルで、撫でる毛など頭部にしか残っていないだろう、無理を言わないでちょうだい。物欲しそうな目をするのもやめて」
「そのような、突き放すような仕打ちをなさるのは、ご主人様がネズミに姿を変えていらっしゃった間、散々意地悪な事を言ったりしたりした、私への腹いせですか?あれはペリエル様を名乗るふとどき者のネズミだと、思い込んでいたからこその言動と行為、ご主人様への揺るぎない忠誠心ゆえでございます、私は貴方様にこうして再会出来るまでの間、寂しさを一人耐え忍んだのですよ!ようやくその必要が無くなったというのに、気丈に保っておりましたが、こんなにも冷たくあしらわれるなんて。私は悲しくて、今度ばかりは耐えられそうにありません」
 チロリアンはそう言いながら、涙を流した。目を閉じ頬を濡らした青年の、少し青味がかった濃グレーカラーの、肩に少しかかる程の長さの頭髪を、ペリエルは無言で優しく撫でた。柔らかな細い髪の毛はペリエルの指に絡む事なく、するすると滑るような手触りで、その触り心地はチロリアンのそれとほんの少しの違いもなかった。
 チロリアンは目を開いて、つり目気味の濡れた目尻を緩く弓なりにしならせ微笑んだ。間を置く事なく青年はペリエルの首元に頭を近づけたかと思うと体を肌に吸い付くようにぴったりと寄せ、背中へ両腕を回してしっかりと彼女を抱きしめた。ペリエルの腕の中で彼はすっと通った高い鼻の先で、首の付け根から耳たぶの後ろまでを撫で上げた後クンクンと匂いを嗅ぎ、鼻息の当たった辺りをペロリと味見をするように舐めた。それは猫であった時していた、彼にとってはごく自然な行為で、主人にやめてくれと言われたからといって抑制しようという気など、さらさらないといった振る舞いである。
(どうしたものか)
 トクントクンと強く打ち付ける心臓の音にドギマギしながらも、彼女はそれを意識的に落ち着けようとした。青年の髪を撫でながら、自分に言い聞かせるように官能の囁き声を振り払う。相手は自分の飼い猫、美しい青年はあくまでも仮りそめの姿。彼からの、チロリアンからのあられもない求愛表現に欲情するなんて、いくら夜の情事など遠い記憶の中に置き去りの日常を送っているからって、よりによって、飼い猫に欲情するなんて、私ったら、まったく馬鹿げてるわ。
 ペリエルは自分の頭を整理する為にも、チロリアンに、これからの彼の立ち位置や振る舞いなどを、ゆっくりと確認するように口に出して伝えた。
「明日の朝になったら、ダビズが私の部屋をたずねてくるだろう、いつものようにね。今後いつまでこの姿のままかは見当もつかないが、人間に変身してしまったお前を隠しておくわけにはいかないから、お前は今回の旅で雇い入れる事にした、私専属の召使いということにする。お前は私とのやり取りで、自分をワタシという言葉で言い表しているけど、これからはボクと表現なさい。それから、ダビズや他の家政婦が私達の側にいるときは特に、今のような愛情表現はしてはいけない、ただ少し離れた場所で行儀良く振る舞い、私の側にいるんだよ、分かったね?」
 ペリエルは落ち着かせるようにチロリアンの髪を上から下へゆっくりと撫でながら、静かな口調でそう言った。するとチロリアンは頭を首元に寄せながらしていた動きをしばらく止めるとペリエルに向き直り、目を合わせないまま、まつげを伏せた後で、反対側の首元に頭を寄せ直し小さな声で尋ねた。「それは、旦那様の前でも、ですか?」
 ペリエルは笑顔で答えた。
「もちろん、私の夫の前でも同じように振舞うんだよ。しかしながら、一度で事の次第を理解出来るなんて、お前は猫なのに、とても頭の回転が早い。さすがは私のチロリアン!ああ、それと、もう一つ」
 ペリエルは自分の上半身に腕を絡ませ静かにしている彼の顔を覗き込んだ。チロリアンは未だに物欲しそうな潤んだ瞳でペリエルに熱い視線を送り唇を薄く開いている。
「お前を、チロリアンという名前で呼ぶことは出来ないね。今からお前を違う名で呼ぶから、自分の名前をしっかり記憶しておくんだよ。ところでお前の方に、名前の希望はあるかい?」
 チロリアンは額をペリエルの素肌に擦りつけながら首を横に振って、「ご主人様に命名されるがまま」と答えた後で、薄い唇を首筋にぴったりと付けた。ペリエルは熱を持った薄い皮膚の、くすぐったいような感触に胸を高鳴らせた。落ち着きを失いそうな意識の中でも、彼の新しい名前の案を彼女はすぐに思いついた。
「クラウド。レイニー・クラウド。お前の名前は、いまからレイニー・クラウドだ。雨降り前のグレーの雲の色によく似た毛色だからね。視覚情報に即した名前なら、お前も覚えやすいだろう?」
「クラウド」チロリアンは呟くように、ペリエルの首元で新たな名前を口にした。微かに当たる彼の息遣いが、彼女の肌をくすぐった。チロリアンはさらにじゃれつくように額をペリエルの首根っこに擦りつけ、「承知いたしました、ご主人様」と答えた。

「気に入ったかい?」
 ペリエルが尋ねると、チロリアンは頷いて、ペリエルの体に回した腕にさらに力を入れぎゅっとしがみついた。
「もちろんです、ご主人様」
 ペリエルは柔らかな笑い声を上げ、「じゃあ、先ほどのメモに加えて、記しておかないとね」と言った。小さなネズミの姿で、シャーペンの芯を折って紙に記入したのがほんの数十分前の話だとは、ペリエル自身信じられない事だったが、立て続けに起こりすぎた信じがたい事象を前にしてみると、ネズミから人間の姿に戻れた喜びは言葉に出来ず、ペリエルは言い知れぬ安堵に微笑み、元の姿に戻れた事実を再確認するように腕の中の青年を力を入れて抱き返した。チロリアン改めクラウドは、体を彼女に寄せたまま、見上げるようにして主人の表情を確認した。彼の見上げた先にはいつもの穏やかな慈しみの笑顔が浮かんでいた。クラウドはやっと安心し、その後視線を逸らしたが、それは彼の忠誠心の現れだった。
 ペリエルはクラウドを優しく抱き返しながら、右手で彼の額の毛を少し避けると唇を落とした。するとクラウドは大きな目をまん丸く見開き、その後怯えるようにさっと顔を彼女の首根っこへ隠した。
「今日はチロリアンが、私の付けた名前を嫌がっていなかった事と、新しい名前を気に入ってくれた事の、二つが明らかになった、記念すべき日だよ」
 ペリエルがそう言って笑顔のままクラウドの顔を覗き込むと、クラウドは少しだけ上目使いにペリエルを見た後で、さっと視線を落とし、彼女に強くしがみついたまま、動かなくなってしまった。先程までは一時の猶予も与えないというほどの激しい求愛の情を、全身で示していたのに、突然おとなしくなった彼が心配になって再び顔を覗き込んだ。するとクラウドはなおもその視線を避けるようにして小さくなってしまう。
「どうしたの、クラウド。人間に変身したことで、もしや体に異常が現れているというなら、包み隠さず私に教えておくれ」
「ご主人様、ご主人様の方から、ワタシ、ボクにキスをするのは、どうかお控えくださいませ」
 クラウドはなおもペリエルの腕の中で、恥ずかしそうに俯いた。
「ご主人様は、僕の髪をただ優しく撫でてくださるだけでいいのです。僕は、ご主人様にお仕えする身の上、額とはいえ、お止め下さい。それに、それにもし、僕が貴方様からキスを受けたなら・・・」
 クラウドはそこで言葉を飲み込んだ。ペリエルはなるほどと思い当たり、軽く笑い声を上げて彼の髪を優しく撫でた。
「キスをしてしまったら猫の姿に戻ってしまうかもしれないと、お前は畏怖しているんだね?まったく、何と賢くて状況を判断する能力の高い、私のチロリアン」
 ペリエルはそうと言った後で、口元を手で塞ぎ咳払いをした。
「おっと、私もお前の名前を呼ぶ時には気をつけなければ。ダビズは特にカンが良いからね、ちょっとでもおかしな所を見つけたなら、たちまち紐解いてしまうだろうから」
 ペリエルはそう言いながら、彼の首に着いていたチロリアンテープの首輪を外した。既製の牛革の首輪に、菱目打ちと専用の麻糸で、リボンを縫い付けたものだ。女性というのは幾つになっても可愛いモノに目がない生き物で、特別予定などなくても、リボンやボタンといった手芸材料を買いためておくものだが、ペリエルもその一人だった。しかしながらクラウドの首から外したリボンの幅は、今や元の大きさの2倍ほどに大きくなっていた。ペリエルは太くなったチロリアンテープを驚きを交えて見つめた後で、ベッドのすぐ隣のサイドテーブルに置いた。私のメガネの一対のレンズだって、ネズミに姿を変えていた時は、レンズ豆なんかよりずっと小さなサイズに変化していたわ。リボンの幅がちょっとばかり大きくなったからって、今さら驚くものですか、ペリエルはそんな風に急変した事態を無理やり納得するよう心の中でやり込めた。
「そうだ、このリボンはチロリアンの名前の由来となった大切な物だから、リボン部分を取り外して、蝶ネクタイに作り直してあげよう。クラウドには明日、使用人の制服を用位させるから、その襟元に飾るといい。きっと良く似合うはずだよ」
 ペリエルはそう言ってクラウドの雨雲色の髪の毛を優しく撫でた後、チロリアンにいつもそうしたように、ぴったりとしたTシャツの上から彼のしなやかな背中を少し撫でてみた。するとクラウドは頬を赤らめ、こそばゆいのか体をもぞもぞと捩ってペリエルに強く抱きついた。
「やっぱり毛がないと、上手く撫でられないな」
 ペリエルは独り言のようにそう呟くと、クラウドの後頭部の髪に下から指を通し入れ、頭皮を優しく揉み上げた。頭部や背中はチロリアンの手足が上手く届かない部位なので、ペリエルがマッサージをするように揉んでやると猫であった彼はいつもとても気持ちよさそうにしていた。
(ネズミの姿の時は、上手くいかなかったけど)
 ペリエルの指は後頭部から首筋を伝い、Tシャツの上から背筋を少し揉むようにして撫で降りるとまた後頭部へ戻った。ペリエルがネズミであった時同じようにして彼の身体から揺すり落とされそうになった時のことを、すでに懐かしく思い出し、笑顔を浮かべながら指を動かしていると、ふいにクラウドが顔を上げて、少し息を荒らげながらペリエルを正面から真っ直ぐに見つめた。ペリエルはクラウドの、それまでは目を合わせようとすると逸らしていた瞳が、頬を赤らめながら潤みペリエルのそれに吸い込まれるように見つめ返す様にハッと気づくと、手の動きを止めた。そこには人間の姿に変身した彼がそれまでは見せたことのなかった、意志の色が浮かんでいた。薄く開いていた唇が、ペリエルのすぐ目の前でゆっくりと、艶めかしく動いた。
「猫の姿だった時とは、何だか、感じ方が違いますね、上手く言えませんが。貴方様が僕の体毛を優しく撫でてくださると、猫であった時の僕は心底安心することが出来たのに、今は何故か、体が強ばって、息が上手く出来ない。少し前まであったはずの全身の毛が、毛穴から勢いよく逆立つような、さざ波のような血流の躍動に皮膚が粟立って、細部まで震え上がるような」
クラウドが虚ろな表情でそう言うのを聞いた途端、ペリエルは彼の後頭部から慌てて手を引いた。クラウドのトロンとした半開きの目は、その時彼女の唇に釘付けになっており、ペリエルはクラウドの頭部にもう一度手をかけ少し強引に自らの首元に引き寄せた。クラウドはペリエルに抱き寄せられると入っていた力を抜き、目を閉じて彼女に身を委ねた。ペリエルはためらいながら彼の頭部の毛をそっと撫で、「今日はもう休もう。明日の朝、目を覚ましたら、何もかも夢だったって話になるかもしれない。いつもの朝のように、お前のフワリと空気を含んだ柔らかな長い毛を抱き寄せながら、元通りの姿で、目覚めるかもしれないからね」
 ペリエルはそう言い毛布と布団を手繰り寄せ二人の肩まですっぽりと覆うと、サイドテーブルに手を伸ばし明かりを消した。暗く静かになった部屋で、彼女に抱きついたままでいる、元は飼い猫のチロリアンであった青年の雨雲色の長い髪を、優しく撫でた後で軽くキスを落とした。
「おやすみ、チロリアン」
 するとクラウドがペリエルの腕の中でもぞもぞと動きながら、「キスはお止めくださいと申し上げたのに。それに私は、僕はチロリアンではなくクラウドです」と強い口調で言った。そこには先ほどのような熱に浮かされた声色はなく、ペリエルは安堵しながら腕の中の美しい青年を見て、温かな微笑みを浮かべた。明日の朝、お前が猫に戻っていたら、たっぷりと毛を撫でてあげるからね。
「おやすみ、クラウド」
「おやすみなさい、ご主人様」

  *


 頬に当たる濡感でペリエルは目を覚ました。その濡れた皮膚の感触は次に首筋を撫で、上腕から手の甲へ、足首へ飛ぶと脛を撫で上がり、鎖骨の下で止まった。再び首筋を撫で上がる滑らかな感触に、ペリエルは軽く吐息をもらしながら、素肌を飛び回る生々しい感触から逃れようと、仰向けの体制から布団を抱くようにして横を向き、膝を曲げてうずくまった。
「チロリアン、くすぐったいわ」
 ペリエルはそう言うと、もう一眠りしようとした。ところが彼女の腹部に力強い腕が回され、後ろから抱きついてくる人の気配があった。曲げた膝の裏に添うように膝があてがわれ、それがペリエルの股を割るようにおずおずと入ってくる。間を置かず始まった首の後ろを執拗に舐め上げる舌の感触に彼女の体は震え立った。吸い付くような唇の動きと表皮を舐めとる舌の感触は官能のしらべ以外の何物でもない。ペリエルは目を開き肘を立てて、後ろを振り向いた。
 雨雲色の髪の、美しい青年が、瞳をとろんと潤ませ、寝転んだままペリエルに微笑んでいた。
「ご主人様」 
 青年は向き合ったペリエルに腕を回し、彼女の首元に顔を埋め、そのまま額と髪を愛おしそうに上下に擦りつけた。ペリエルはパニックになりながら、なおも首元を舌で舐め上げようとする青年の肩を両手で力いっぱい押して、叫ぶように言った。
「く、クラウド!」

「おはようございます、ペリエル様」
 クラウドはそう言って微笑むと、ペリエルの顔を見上げながら、ベッドに仰向けに体を横たえた。そのままTシャツの裾を胸の突起の上まで捲くり上げ、腹部をあらわにすると、懇願するような熱っぽい目でペリエルに訴えかけた。ペリエルには彼が、毎朝そうされるように、お腹だけは白くて長さもない毛を、仰向けに寝転がった状態で下から上に、割と強めになで上げてもらいたがっているという事だけは分かった。しかしながら青年の姿の彼に、そんな行為を出来る訳が無い。
(人間に置き換えると、とんでもなく淫らなプレーだわ。チロリアンがこんな表情で毎朝撫でられていたなんて、よもや知らずにいたけど)
 ペリエルは途端に覚めた眠気を、さらに振り払おうと目をがしがしと強く擦った。クラウドをなるべく見ないようにして立ち上がると、お手洗いへと直行した。
「ご主人様」
 クラウドに背後から声をかけられると、ああそうだったと思い立ち、「もよおした時は、砂の上でなくて、ここに入ってするんだよ」と言い残し扉を閉めた。

 お手洗いから戻ると、クラウドはベッドの上で背中を丸めて横たわっていた。近づいて顔を覗くと目は開いていて、寂しそうにペリエルを一瞥した。そんな目で見られても、体を撫でてやる事は出来ない。ペリエルはため息を付くと、「服を着替えてくる」とだけ言い残しドレッサールームへ姿を消した。

 身なりを整えて戻ってみるとクラウドが部屋の何処にもいない。まさか部屋の外へ、ほぼ下着姿のあの格好のまま出たのだろうか。部屋のドアを開けて廊下を見渡してみても、人の気配はない。食堂の方で微かな物音がするが、不審人物が現れて騒いでいるといった様子もない。
(何処へ行ったんだ、部屋の外でなければ)
 ペリエルはお手洗いのドアに手をかけた。鍵がかかっておらず、恐る恐る扉を開くと、用をたしている最中のクラウドの姿が目に飛び込んできた。立って尻部を丸出しにした状態の股の間から、黄色い液体が音を立てて落ちている様を目の当たりにしてしまい、ペリエルは驚き恥じらいながら、バタン!と勢いよく扉を閉めた。閉じたドアの奥から「ペリエル様?」というくぐもった声が聞こえてくる。
 ペリエルは混乱し高鳴る心臓と赤らむ頬や耳の熱に動揺しながら、ベッドに腰掛けてじっとしていた。クラウドはドアを開けて出てくると、何事もなかったかのようにペリエルの隣に腰掛けた。
「ドアに鍵くらい、かけなさい!」
 顔を真っ赤にしながらペリエルはきつく叱った。クラウドは首を傾げて「ですが、ご主人様は、僕が排泄する様くらい、いつでもご覧になって・・・」と不思議そうに口にした。その言葉を遮るように、ペリエルは声を荒らげながら、「貴方は今、人間なのだから、そのような姿を他人に見せる必要はないのです!」ときっぱりと言い放った。
「それから、用をたした後は、砂をかけたりせず、水を流すのよ、タンクの横に付いているレバーを、手前に引くだけでいい。その後洗面台で手を洗って。お前は綺麗好きだから、出来るね?」と言って、正面からクラウドを見つめた。クラウドは「分かりました」と言って、もう一度バスルームに戻った。ペリエルはため息を深く吐き出した。
(私の方がどうしてオロオロしなきゃいけないのかしら、まったく。クラウドには振り回されっぱなしだわ)

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