バレバレバレンタイン

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バレバレバレンタイン  一部も全部もコピー禁止、転写不可

またしても山田と目が合ってしまった。左から二列目、下から三段目の僕の下駄箱、高さ二十センチ弱の小さな鉄の扉を、勢いで開けたときのことだった。気が付くとすぐそばまで来ていた橙色のスニーカーを履いた足が目につくやいなや僕は驚いて、「わっ」と呆けた声をもらして半身を仰け反らせ、ドキッとするほど冷ややかな砂まみれのコンクリートの床に左手をついてしまった。いろどりのない地面の砂色に浮き立つ強烈なオレンジが間違えようのないくらいそこにある。肝試しで晒す醜態のような姿で腰を抜かしたままの僕を見下ろしながら、同じクラスのそいつがその視線をサッとそらしたとき、不意に打ち付けた左手のひらの腹に荒い砂粒がめり込んだ痛みなど覆い消してしまうほどたまらなく恥ずかしい気持ちになった。幽霊のように音もなく現れた山田は幸いにも顔をよそへ向けたまま声をかけてこない。僕は体を起こす時下駄箱の中を、もう一度さっとじっと盗み見た。何も入っていない。光の遮られた濃いグレーの箱の中身は全くの空っぽだ。二年と十ヶ月の中学生生活でくたくたによれて汚れた上履きに足をねじ込み脱いだ靴を放り込むと、バン!と音を立てて逃げるようにその場から離れた。

 瞬時に上昇した心拍数を下げるように速度を落とし歩きだすと、顔見知りの同級生男子達が下駄箱から校舎までの通路ですれ違い様に「オウ」とか「ヨウ」とか、一言二言言い損ねたような声をかけてくる。
(お前らは、『骨の髄までB―ボウイ』のラッパーか)
「オウ」と「ヨウ」しか言わない複数の友達に心の中で突っ込みながらも、僕も同じように「オ、オウ」とバツが悪そうに返す。いつものふざけた調子で、「うぇーい!お前ー、もしかしてもうゲットした?!」なんて、お互いに聞ける訳がない。友達同士の軽口を消化不良気味に飲み込んで歩みを進めると、焦る気持ちに拍車がかかり、前のめりの上半身と連動して早足になる。一個でいい、たった一個でいいんだ、っていう気持ちは、僕だって同じだ。
廊下にたむろしコートの袖口から少し出した指先を吐く息で温めながら雑談している女子達の声は異常に明るく、声量が増していて、そばを通り過ぎる時も気持ちぎこちない。そんな中、
「やだぁー!ちょっとー!」
 と上がった何気ない一言に男子達がさもさり気なく振り向き、その内の一人である僕は言うに言われない焦りを置き去るように階段を一段飛ばしに駆け上がった。

 教室に入り後ろから二番目の窓際の席にバッグを置くと、高橋寛生(たかはし ひろお)が笑顔で近づいてきて、興奮気味に昨夜のプロ野球中継の話を始めた。僕は高橋の声を聞き流しながら、ついさっき目を合わせた山田の様子を思い出していた。髪型はサイドも首周りから上も短く刈り上げてさっぱりとしているけど、つむじから額へ向かって流された、眉毛が隠れるくらいの長さの前髪は重めで、大声で笑っているのを見たことがないせいかちょっと暗いヤツという印象だ。目も鼻も口もこぢんまりとしているが整っているので、どこか都会的でクール、ミステリアスな雰囲気がある。
会話の最中でもなく互いの目が合うなんて、思い起こしてみるとそうそうない。しかも彼と目が合ったのはここ十日ほどの間に二度目のことだった。瞬時にそらした後の彼の、とっさについた手に感じたコンクリートの床のような、冷やかな横顔を脳裏に浮かべ、まずい所を見られたなと、ぶり返した恥ずかしさに眉をひそめる。山田とはクラスでもほどんど会話もしないから、無言でその場を離れたこと自体不自然なことはないと思い込もうとしたけど、彼が三年Cクラスの開きっぱなしの後ろのスライドドアから視線を落として入ってきたとき、僕は乾ききった喉に無理やり唾液を飲み込んだ。

 クラスの女子達は授業開始前、それぞれの小さな集まりの中で、甲高い声でおしゃべりをして騒いでいた。キンと鼓膜を突く女子の高い声は不安定な心持ちの今の僕にとって耳障りでしかない。彼女らはとびきり楽しそうではあったけれど、含むような微笑は男子達を値踏みしているようで、僕にはいつもより少し意地悪に見えた。
しかしそんな陰険な女子達とは打って変わり、廊下側の窓際に座ってとびきり素敵に笑っている、黒髪さらさらストレートショートヘアの彼女を、僕は横目に見て視線を泳がせた。色が白くて、瞳が大きくて、仕草はたおやかで、誰がどう見たってクラスで一番可愛い白縫華鈴(しらぬい かれん)さん。長時間直視するなんて、今日の僕の誇大した願望が、脈打つ心臓の揺れによって微震した空気と、ギラギラと熱い視線にのっかって伝わってしまいそうで、絶対に出来ない。僕の心臓は今日という日が幕を開けた時から連打で殴りつけた巨大な鐘のトレモロのように絶え間なく響きいやおうなく感情を高まらせている。そしてその速度は最上階三階の教室に到着し彼女の姿を確認した後極限に達していた。
けれど揺れ惑う視線が後ろ黒板の真ん前の、一番後ろの席に腰掛けた山田と再び合ったとき、僕は今日という記念すべき一日に募らせた自分の願望が丸のまま彼に見透かされてしまったように感じてギクリとした。手や足の指の先まで膨らんだように感じるほど、細部の脈まで血流を押し流しながら、頂上まで高まりきっていた躍動する心臓が、その瞬間勢い余って胸から飛び出るんじゃないかと思った。

「おい橋本!橋本隼翔(はしもと はやと)!」
「声がデカい、フルネームで呼ぶなバカ!」
「聞いてんのか?!返事くらいしろよ!」
「ああ?!昨日の『風神対豪神』の試合の話だろ、聞いてるし、オレだって見てたんだから知ってるよ!」
「すーーごかったな!延長十四回!十九対十八!ホームラン両チーム計十本!プロ野球はやっぱハンパねーわ!」
「けっッ、豪神、負けたけどな!」
「ファンにしてみれば勝ち負けなんてただのオマケなんだよ!そりゃあ格別のオマケが着いて来た方が嬉しいに決まってるけどさ!一緒になって盛り上がれる瞬間が何より楽しいし、その都度神プレーに出会える!昨日の4回裏2アウトからのセカンド裏へ抜けた2ベースヒットなんて、痺れたなぁ!そして最高に盛り上がったのはその後!宇宙間を抜けたボールが高いアーチを描いてああでこうで。。。」
 僕は同じ野球部の高橋がハンパないテンションで騒いでいる声を聞き流していた。室内なのに、学校指定のウールコートは脱いでも、ロイヤルブルーのマフラーだけは外していない。何故こいつが他の男子達と違って、窓という窓を占領している、ぴりっと冷たく張り詰めたどこまでも澄んだ真冬の水色の空みたいに、ハイテンションでありながらも焦りやくもり一つない、心底晴れやかな笑顔で楽しそうにしているかって、昨日の部活の後、意中の下級生マネージャーからフライングバレンタインチョコをすでに受け取っているからだ。

 高橋は僕と同じ野球部で一年の頃からの親友、入部した時「『橋』のつく苗字」だな、と先輩から二人セットにして扱われて以来の仲良しだ。僕だって165センチと、中学生としては低くない身長だが、高橋は僕よりさらに10センチも高く、ガタイもデカくて、顔面の造りが美術室の石像ばりにクッキリハッキリしているヤツだ。だけど一番好きな色や動物の種類がそれぞれ違うのと一緒で、人間の好みだって絶対これしかダメってことはないって思うから、僕みたいに奥二重で、先の丸い小さな鼻にぽってりとした唇が特徴的な、いわゆるいがぐり頭の、良く言って愛嬌のある、悪く言えば水彩鉛筆で描いた輪郭をさらに水でぼかしうっすら着色した水彩画のような、はっきりとしない顔立ちの男子が好きって女子が、ああ日本のどこかに、いや、クラスに一人くらいはいるって思うんだ。だからこんな日でなければ女子から見たらどっちがイケメンかなんてちっとも気にしないんだけれども、あまりに浮かれた高橋の様子を間近にしていると今さらになってこの笑い飛ばしても文句を並べても虚しいだけという不平等な現実に沸々と腹が立ってくる。

 四日前、先週金曜日の部活終わり、高橋は下級生の居辺凛桜(オリベ リオ)というマネージャーに告白をした。僕はというと高橋の側で一部始終を見守るはめになった。
 その日は雪は降っていなかったし天気も良かったけど空気はハリハリと冷たく耳も鼻もジンと痛んで、グラウンドのランニングも皆息が白いばかりで体なんかちっとも温まらずただ凍えそうだった。
一嘉賀(いちかが)中学校、略してイカ中野球部は、甲子園に行くような有望な球児なんか一人としていない、少し野球をかじった事のある、もしくはただ好きで入部している、ごく平凡な中学生が集まった純粋な部活動の為のチームだ。顧問である理科教師の松山先生は、月・水・金、三回の部活動のうち、総勢18人のメンバーがぎりぎり二チームに分かれて練習試合をする月曜日だけは終日グラウンドに出てきているけど、グラウンドの端っこや校舎の間が活動場所になる水曜日と金曜日は、部活始めの十分程度マネージャーにその日のトレーニングメニューを確認したのち、「よし」とか「おい」とか、「いいか」とか、適当な掛け声と手招きで部員を集めた後に、「五時には切り上げて帰れよ」とお決まりのセリフを残してそそくさと理科準備室へ戻ってしまう。身長こそ高いけれど、松山先生は細身で運動なんか全然得意そうじゃない。水曜日と金曜日は全国大会に出場した女子ソフトボール部が練習試合をしてグラウンドを占領するが、もちろん僕ら弱小野球部には全国ベスト8の実績を持つ女子ソフトボール部との、明らかに不公平な扱いの差に声を上げる権利などない。男子並みにいかつい体格の女子達がマッチョの体育教師であるソフトボール部顧問の矢次先生の指導のもと、威勢の良い声を上げているグラウンドの奥の、校舎から最も遠い、少し草が生えかけている辺りで、冷気にさらされ皆真っ赤な顔をして、腕立てや腹筋などの基礎体力を上げるメニューから持久力を上げるランニングメニュー、キャッチボール、ソフトボール部から緑色の練習用ネットを一つ分けてもらってのバッドのストローク調整メニューを繰り返し、午後五時のチャイムが鳴るまで耐えると、全然止める気配のない女子ソフトボール部員の脇を横目に「早く帰ろうぜ」と小声で言い合って部活動を終えるのだ。
僕らイカ中野球部の練習メニューを組んでいるのが部にただ一人の女子である居辺マネージャーだ。一学年下の居辺凛桜マネージャーは、松山先生から野球部の活動メニューの一切を任されているしっかり者だ。彼女は部室にもこっそり持ち込んでいる、大好きな「H2O2」(野球漫画)や「バックストリートダンク」、「キャプテン燕」(野球に限らずスポーツ漫画なら何でも読むという)の影響かは知らないけど、新入部員自己紹介の時、「私は全力で、未来の『青春一筋』甲子園球児を生み出せるよう、抜かりないサポートをしたいです!」と意気込んでいた。今思い出してみると、肩にかぶるくらいの長さのくせ毛を飾り気のない茶色のゴムで一つに束ねたヘアスタイルにも、しっかりとした太さの眉毛にも、カッと見開かれたやや大きめの二重の目にも、つんと上を向いた鼻にも、彼女の屈強な意志が現れていた。その時は部員の誰もが居辺の素性を知らず、男ばかりの部員に紅一点女子が増えたことを単純に喜び心からの笑顔で彼女を迎えた。居辺が自己紹介で、握り込んだ右手を思わず胸の高さに上げて宣言したその言葉を、彼女が本気で口にしていたのだと、あの時僕らが知っていたとしたら、だらしなく表情を緩めた笑顔で拍手をしている心の余裕なんてなかったはずだ。居辺凛桜は軟弱なイカ中野球部員の尻を叩き、男子生徒の誰よりも部活に本気で取り組む、この平成の時代には珍しい熱血女子だった。 
先週の金曜日も部活が終わるとマネージャーの居辺は背後に色が抜けきって古いながらも腰を落ち着けるには十分な背もたれのない木のベンチがあるにも関わらず、いつものように部室の前で立ったまま、次々と部員達が入っては出て行く側で、白い息を吐き鼻の先や頬が赤いのも気に止めず、渋い顔でファイルにペンを入れていた。居辺が部室の前でファイルを睨みつけている様子を、制服に着替えて先に部室から出てきた僕と高橋が、彼女から少し離れた場所で寒さに耐えながら見ているのに気がついた同じ野球部員である斎藤が、不思議に思ったのか興味を引いたのか、僕らに近寄ってきた。かじかむ指を閉じたり開いたりしながら、斎藤を無視するように顔を一点に向けたままの高橋と、僕を両方見比べたあと、笑顔で僕に話しかけた。
「二人、帰んないの?」
「ああ、うん・・・ちょっと」
「なぁ、居辺が持ってるあのファイル、何書いてあるんだろな、いっつも気になってたんだけど」
 僕は斎藤をいつになく真剣に見つめ返して、首を横に振った。居辺の後ろに立った時、たまたま目にしたことがあるそのファイルには、包み隠さぬ部員の評価と、一言メモ書きが記されていた。瞬発力1、腕力3、敏捷性6など、10段階の評価が部員一人一人に付いていて、目にとまった殴り書きのメモには、「足が遅すぎる」「コントロールが破滅的に悪い」と記され、それが一体誰と誰のことを書いたのかまでは、怖くて僕には確認することが出来なかった。
「間違っても見に行くなよ。知らない方がいい事って、世の中には沢山あるんだよね」
「・・・そんなにひどいのか?」
「見せてって言ったら、居辺は見せてくれると思うけど。その後もしかしたら、三日間は食欲を失うかも」
 練習メニューの最中に『基礎体力は努力で上げられますよ!』と繰り返し言う居辺の言葉を思い出す。あのファイルの自分に対する評価メモにはどうせ、「目立つ才能がない」とでも殴り書きの文字で記されているんだ。僕はファイルのことを気にとめた途端に心底ゲンナリした。だってその言葉は『才能は努力でカバー出来ない』と言っているのと同じ意味だからだ。足の早さも、投球のスピードも中の上、言われなくたって自覚している。居辺が大きな声であの言葉を言う度、僕はムッとして、トレーニング中の腕や足に力を入れ直した。自分で分かっている事実をわざわざ意識させられるより神経に触る物言いはないのだ。しかしながらその言葉に炊きつけられた結果意地になり手抜きせずにトレーニングを頑張ったおかげで、二年前ただ細いだけだった体つきはずい分筋肉質になったけれど、それにしても。
ファイルのことで意気消沈した感情が伝わったのか、斎藤は自分の肩を両手をクロスにして抱えると、身震いし怯えた目で僕を見つめた。もちろんそれが寒さのせいなんかじゃなかったのは言うまでもない。
「俺、先帰るわ。恐るべし、『鬼オリベ』」
 鬼オリベというのは僕ら野球部員の間の、マネージャーの異名だ。マネージャーがランニングの最中、「遅い!たった一周しか走ってないのに、落ちてる!もっとスピード上げる!」と女子にしては低い、どすの効いた大声で追い立てると、僕らは息を切らしながら顔を見合わせて、小さな声で「でた、鬼オリベ!」「鬼オリベだ」と囁き合った。すると間髪入れず、「もう一周追加!」と声が飛んでくる。入部してきた時はちょっと可愛いなと思ったのに。部員のヤツらだってきっと、僕と同じように、嬉しい気持ちと一緒に野球部初めての女子マネージャーを迎え入れ、それなのに同じように、期待を裏切られる形で、女子って男なんかよりよっぽど融通がきかなくておっかない生き物なんだなと実感させられ、同じように、僅かにでも持っていた女子という異性への理想を打ち砕かれたに違いなかったのだが、高橋だけはもちろん別だった。
空気が乾燥しきった埃っぽいグラウンドから校門へ、斎藤が小走りに遠ざかっていくのを見送ると、僕は居辺が部室に姿を消してからずっとホントの石像のように固まっている高橋の様子をうかがった。高橋は険しい表情でまぶたの上の深い彫りをさらに深くし、思いつめたように口を硬く結び黙ったまま、居辺が再びドアを開けて出てくるのをじっと待っていた。僕は表情の硬い高橋を見て、もし何かあったら自分がフォローしようとその時に思った。日頃調子は良いけど根が真面目な高橋のことだ、上手くいかなかったら相当落ち込むに違いなかった。僕はその時は高橋が振られると思っていたから、精一杯慰めるつもりでいたのだ。
 僕は居辺みたいな、少年漫画が好きでちょっとオタクが入っていて、ドSっぽい女子は男の子みたいで苦手だ。しかしM体質の高橋には、そんな居辺がドンピシャどストライクだったらしい。僕らが無事二年生に進級した春、彼女が新入生で入部してきたその日に好きになったと、高橋はまるで大切な秘密を初めて明かすように、恥ずかしそうに僕に打ち明けた。
 居辺と言葉を交わす度羽根で首筋でもなで上げられているかのように声が裏返っていた高橋が、彼女を好きだなんてことは、僕にそれを打ち明けた去年の夏の終わりにはすでに野球部の全員が分かっていた話だったので、夏休みの終わり、海で遊び倒した帰り道、夕焼けの茜色にさらされながら彼の気持ちをあらためて聞かされた時には僕もやっぱりそうかと思って、「そうか、(たぶん居辺も気付いてるだろうけど)がんばれよ」と言ってそれ以上特に盛り上げることもなく隣を並んで歩いた。高橋はその直後極端に口数が少なくなってしまったから、ああ本気なのだなと思った。それ以来僕は高橋の恋を茶化さず応援することにした。
 だから高橋がまた口をつぐんでさっきまで居辺がいた部室のドアの辺りを見つめている間も、僕は居辺だって僕と同じようにすんなりとヤツの気持ちを「うんうん、知ってましたよ」とスルーするように聞き流すだろうと思っていた。彼女は高橋の気持ちに気付いているけど、その気がないから部活中も平然としているんだ、と僕は思っていたのだ。でも居辺は高橋の気持ちに、彼が告白するまで気付いていなかった。スポコン漫画が大好きで、タイムウォッチを首に下げ、いわくのファイルを片手に持って「遅い!」「へたくそ!」「もう一回!」と罵声を飛ばすドSなイカ中野球部マネージャーは、たぶん高橋よりも野球が好きで、めちゃくちゃ鈍感で、少女漫画の恋愛のようなひねりのない展開をガチで受け取ってしまうような、単純かつ純粋な女子だった。

 最後に一人部室から出てきて鍵をかけていた居辺に、高橋は彼女までのおよそ三十メートルほどの距離を突然ダッシュで詰めた。僕は唐突に駆け出した高橋を急いで追った。
「オリベ!」
「うわっ、びっくりした!先輩、まだいたんですか」
「だから、お前は、声がムダにデカいんだってっ」
 僕は少しの駆け足でより白さを増した息を整えながら高橋の側まで行った。直ぐ近くのグラウンドではまだ女子ソフトボール部の雄叫びに似た掛け声が響いている。マネージャーは肩をビクッと振動させると振り返り、鼻の先を赤らめながら白い息を吐き出した。
さっきまでのあずき色のジャージから、ウールコートを手に持ちブレザーに膝丈スカートという上下紺色の制服に着替えた居辺は高橋を見上げると眉をひそめた。居辺は野球部の中で一人だけ女子なので、いつも男子部員が着替え終わるのを待っている。ついでにその日の活動記録と、部室の鍵の管理もしているというわけだ。いつもなら他の部員のように帰路へ向かう高橋と僕が残っていたので、意表を突かれ目を見開き丸くしていた。
高橋は居辺の前に立った後、深呼吸をするくらいの間押し黙った。そして少し早口になりながら言った。
「聞いてくれ、おっ、オレは、朝昼晩、二時限後の早弁も含めたら、四度のメシより、お前が好きだ!」
「はぁ、ふざけてる訳じゃないですよね」
 居辺は僕が思っていた通りの反応を見せた。僕なんか、部活の前の日なんか食欲なんて余計わかなくなるのに、食い物と居辺を比較出来るなんて、まして食い物より居辺なんて、はっきり言って信じられない、よっぽどマゾヒストで追い込まれるのが好きなんだなと思いながら、きっとずっと言おうと決めていた言葉を告げてまた黙っている高橋に、僕はその時出来る限りのフォローを試みた。
「マジマジ、こいつ今日ずっとソワソワそわそわしてたの、気付いてただろ?」
「いや、まぁ、いっつもよりはちょっと変でしたね、でも別に、高橋先輩いつでもテンションが妙だから」
「それは全部居辺のせいです」
 僕と居辺のやり取りを遮るように、高橋が口を開いた。高橋の瞳は潤んで、真剣そのものだったけど、多分一杯一杯で相手の言葉も自分が何を話したかも口から出した側から夕暮れ前の寒空へ飛んでいってしまっているようだった。
「それで、バレンタインまで待つから、返事、聞かせてくれ!」
「十四日ですか?今日が十日だから・・・分かりました」
「今はやめてくれ!心の準備が出来てないから!」
「十四日で分かりましたって言ってるじゃねぇか、もう寒いから帰ろうぜ。俺らお前が出てくるまでずっと待ってたんだからな。じゃあな、居辺」
「はい、さよなら」
「さよなら?!サヨウナラとか、やめてくれ、もしかしてもうフラれたのオレ?!」
「違いますよ。分かりましたから、ちゃんと返事どうするか考えます」
「早合点すぎんだよ。そんなに焦るな、帰るぞ」
「いっつも部員みんなに気を配ってくれて、今日もこんな遅くまで残って、部活終わりの整頓も、面倒な鍵の管理も、マジでいつもアリガトな!」
 叫ぶように居辺に礼を言う高橋のコートの裾を持ち振り返りながら、僕は彼を無理に引っ張って歩き出した。指を温めるような仕草で口元に両手を当てて、部室のドアの前に立ったまま僕らを見送る居辺も、僕らと同じように鼻も耳も真っ赤っ赤だった。僕はその時居辺の顔が赤いのは、マジで外気が寒いからだって思っていた。居辺の様子は顔が赤い以外いつもと何一つ変わっていないように僕には見えた。

 バレンタイン・イヴである昨日の部活終了後、マネージャーは部室のドアの前で、手に持ったファイルに視線を落とし、スクールバッグを部室前の背もたれのないベンチに置いて、部員達が入っては出て行くそばで立ってうつむいていた。それはいつもの居辺だった。グラウンドのダイヤモンドを使った練習中も試合の最中も普段と変わらず大きな声を張り上げ、ベースに足をとられてずっこけ膝に擦り傷を作った一年生部員に消毒液を塗ったり忙しそうに働いていた。
告白の返事を明日にひかえ、高橋は部室の中で「さっとドアを開けて、帰るぞ」「ドアを開けたら、さっと帰るだけだ」と呪文のように何度も呟きながら、ウロウロして、最後まで外へ出るのをためらっていた。僕はなかなか外へ出ようとしない高橋にあきれ果て、先に出てるからなと言い残してドアを開けると、居辺とドアを挟んで隣りに立ったまま待っていた。居辺は僕が出てきたのを横目に見ると、また視線をファイルに落とした。その時僕には二人が互いに意識しているのが分かったけど、まだ明日の話だろと内心悪態をつき、なかなか出てこない高橋にちょっとイラつきながら待っていた。
高橋が部室のドアから外を伺うようにそっと出てくると、居辺は顔を上げて「高橋先輩!」と短く声をかけた。居辺はジャージ姿のまま、ベンチのスクールバックからプレゼント仕立ての、透明なセロファンの包みを取り出すと、部室から出てきて直ぐの高橋に渡した。
僕はその時の二人の状況を間近に見ていた。セロファンの中身は薄いピンク色の紙で包まれていて、口には赤いリボンが結んであった。カシャリと音を立てて包みを受け取った高橋と、居辺の二人は見つめ合った後、弾くように顔をそらし互いにうつむいた。
驚いたのは高橋だけでなく、僕もだった。僕はプレゼントを渡された高橋と居辺の、少女漫画みたいな空気を目の当たりにし息を飲んだ。透明なセロファンを結んでいるリボンの色みたいな赤いハートが、二人の間から弾けて飛んでいくのが目に見えるみたいだった。
そこにはまだ数人の部員達もいて、居辺が高橋の名を呼んだあたりから奴らも二人のやりとりを見ていた。部室のすぐ近く、月曜日の練習試合で使った道具をすっかり片付け普段通り一年生部員から先に着替えを終えた後も、特に三年の野球部員達は、週一回の自由に使えるグラウンドから離れたくないからか、ホームベースと一塁ベース、ピッチャーズマウンドの作る三角形の内野エリアにかたまり試合の内容で盛り上がったまま雑談しながらその場にまだ残っていた。
部員達は向かい合う二人にヒュー!と指笛を鳴らして、「お前やったな、高橋!」と歓声を上げて盛り上がった。「うるせー!まだ返事もらってねぇよ!」と頬を赤らめた高橋が恥ずかしそうに吠える。そんな中居辺が下を向いたままで口を開いた。僕は二人のすぐ側にいたので、高橋の頬を赤らめながらも真剣な表情と居辺の恥じらいを含んだ仕草を、たぶん二人よりよっぽど興奮して見つめていた。
「私、面と向かって、好きだって言われたの、初めてで。現実の出来事だって信じられなくて、ドキドキしました」
 居辺がそう言うと他の部員達が驚いて「マジかー!」とか「えーっ?!」と言って騒いだ。
「うっそ?!もしかして居辺も高橋のこと好きだったの?!」
「いいえ、全然」
「ええーー?!全然っておい!」
「居辺ってもしや、草も肉も何でもオッケー雑食系女子?!」
「雑食系って、初めて聞いた」
「だって今作ったもんね!」
「好かれてること自体、知らなかったです。部員みんなの事と、その日の部活メニューの事で頭いっぱいで、それ以外のこと、気にする余裕がなかったので」
居辺は僕や他の部員達が勝手に盛り上がっているのを放置しながら、高橋と向き合い確かめるように言葉を口にした。間近で見ていた僕にしか分からなかったかもしれないけれど、その時の居辺は口調は淡々としていたけどいつもより切羽詰って、思いを言葉にするのに精一杯になっていて、まるで自信なさげで弱気な女の子みたいだった。
「先輩に告白された時、初めて顔をちゃんと見たというか、格好良くて、びっくりしてしまって。自分が当たり前と思ってやってた部活の仕事も、ああやってお礼言われるなんて。先輩はちゃんと見ててくれたんだなと思ったら、嬉しくて。あんな風に真っ直ぐ告白されて、すごい、パンチの効いたストレート来たーーって、すごく感動して」
「オレらを完全無視のお前がすごいわ!」
「小さな胸のど真ん中に、キャッチしちゃったってワケね、直球勝負でね!」
「でも高橋はキャッチャーだけどね!ピッチャーじゃなくてね!」
「そしたらもう好きになってました。これからも、一緒にいてください。それで、もっと好きになったら、ずっと一緒にいられたら」
「高橋真っ赤だな!っていうか、泣いてるな!」
「居辺も真っ赤!」
「いつか先輩の、一日四度のご飯を作りたいです」
 頬を赤らめ、うつむき加減の居辺は、僕から見てもいつもの数倍可愛かった。僕はその日、居辺にもこんな普通の女子みたいな一面があったのかと驚きながら、その居辺と向かい合う高橋の反応も間近で見た。高橋は一日早い居辺からのOKの返事がよほど嬉しかったのか、バカみたいに赤い顔をして、それはサルっぽいとからかわれている僕が言うのも何だけれども、温泉に浸かっている日本猿みたいな赤さで、瞳を潤ませ鼻水をすすっていた。
「開けていい?」
 高橋がプレゼントの包みを少し持ち上げた。赤いリボンに手をかける。居辺は瞳を潤ませて、小さく頷いた。
「うわっ!マフラーだ、もしかして編んだの?」
「編んだ」
「三日で出来たの?」
「出来た」
「巻いていい?」
「どうぞ」
 居辺は恥ずかしさに喉を押されてか、高橋が尋ねる度言葉少なに頷いた。パリシャリと音を立てるセロファンの袋から取り出された青いマフラーは、高橋の首周りに鮮やかな彩りをそえた。
「すっごい、あったかい。一目一目、全部編んである。頑張り屋さんの、居辺のそのまんまだ」
高橋は満面の笑みで居辺を見つめ、居辺は赤い顔を隠すように少し視線をそらした。

「うひゃー、お前ら、やり取りがベタもベタ、ベッタベタだなぁ!」
「手編みのマフラーとか重てぇなー!普通の女子はしない!さすが居辺!」
「熱いねぇーー、お二人さん!ヒューヒュー!」
「騒がしい!散れ!」
「うわわっ、出たーー!鬼オリベ!アンパンマン、タスケテーー!」
「バカそこは桃太郎だろ」
「う、うるさいな!ランニングメニュー増やしますよ!」
「やーいテレ隠し!ツンデレ!ツンデレ!」
「ぐっ・・・うわーーー!」
「ギャアアッ、真っ赤な顔した赤オニが追っかけてくる!おっかねー!」
 居辺と残っていた部員がグラウンドをぐるぐる走り回っている中、高橋は首に巻いた青色のマフラーの裾のフリンジを両手の指に絡めじっと見つめていた、と思ったら「うおおおお!」と雄叫びを上げて一緒にグラウンドへ走って出て行った。

 僕はグラウンドを走り回った後息を荒らげ座り込んでいる野球部員達を見ながら、これが青春か!と思って胸を熱くしていた。
(告白したり、されたりするのって、まるで漫画や映画の中に、自分が入り込んでしまったみたいだ)
あの居辺ですら少女漫画のヒロインに変身したように見えてしまったのに、クラス一、いや、世界一可愛い白縫さんが僕に告白してくるときには、彼女の可愛さは一体どうなってしまうんだ!
その時僕の脳裏には、大海原を行く豪華客船の船頭で腕を広げる白縫さんと、彼女を後ろから支えるように抱き抱える自分の姿があった。最強に可愛い彼女はスカート部分が腰からふんわりと広がった、清楚な水色のドレス姿、男らしさ三割増の僕は白いシャツに茶色いベストとパンツが格好良く似合っている。とろけるように視線を絡ませて、見つめ合う二人。そして交わる視線と同調するように唇と唇を・・・これはファ、ファーストキス?!まさか、そんな!た、たた、大変だーーー!!!!・・・えっ?だけど船が座礁して、だ、だだ、ダメだよ船沈んだらーーーー!!

 それがつい昨日のことで、脳裏には絵に書いたような青春模様が少しも退色せぬまま鮮やかに残っている中で、僕のバレンタインチョコへの期待値は生涯経験したことがないくらいに膨れ上がっていたのだった。
「やっぱりお前、聞いてないだろ!まぁ、気持ちは分かるけど」
 高橋はそう言うと、途端に半端でいやらしい笑みを浮かべ、僕の肩に彼のがっしりと厚い肩をぶつけてきた。僕は反動で前のめりになり、イライラしながら、ハイテンションの高橋をにらみつけた。
「うっとうしいなぁ!熱苦しいからマフラー外せ!オレお前には今日は優しくしてやれそうにないわ」
「カリカリすんなよぉ!お楽しみはこれからだろ、まだ今日は始まったばかりだぜッ!」
 始業のチャイムが鳴った。生徒達は各々の席へ、ざわめきの中戻っていく。僕も自分の席に着席して、数学の教科書とノートを机の上に出す。実は彼女を本格的に好きになったのは今年二月に入ってからのことなので、僕が彼女からのチョコレートを待っていることは高橋に知らせていない。僕は幸せいっぱいハイテンションの高橋にそのことを教えなくて、本当に良かったと心から思い直した。高橋の騒ぎ方では途端にクラス中に僕の想いがバレてしまう。そんなことになったら彼女だって、僕にチョコレートを渡しづらくなってしまっていたに違いない。
 授業の支度を整え頬杖をつくと、ニンマリと笑顔がこぼれてくる。僕は斜め後ろから彼女の姿を覗き見ながら、高橋の言った一言を何度も何度も頭の中で反芻した。
 そうだ、『今日はまだ始まったばかりだぜ』!何と言っても今日は、女子から男子へ想いを込めたチョコレートで告白しなさいって、公に決められている、一年にたった一度のバレンタインデーなのだ。

 二月始めのホームルームで、Cクラス発表会が行なわれた。それは実質中学生活最後の締めくくりになる大きなクラス行事で、各々に何か、歌だったり手品だったり、芸を披露して盛り上がろうというクラス最後のイベントだった。特別にやりたい事がない奴らは、班の六人で歌を歌ったり、アニソンをかけながら女子はメイドアイドル風ダンス、男子は秋葉原のオタクがやるみたいなダンスを踊ったりすることが決まったけれど、僕と高橋はクラスの中でもおちゃらけ担当だったので、クラスの男子に担がれ二人コンビになって漫才をやることになってしまった。
 そして発表会の当日、僕と高橋は前の出し物が終わった後のまばらな拍手の中、自分たちも拍手をしながら黒板の前に立ち、脇に片付けられる前の教卓の辺りに並んで立った。拍手の音が小さくなるにつれて僕の心臓はドキドキと高鳴り、想像していた以上に緊張していた。漫才のネタのアイディアは二人で出し合って決めた。橋本家の僕の部屋で高橋と、「これ絶対ウケるでしょ!」と言いながらノートに案を書き出して、盛り上がっていた時は大成功間違いなしと自信満々でいたけど、いざ本番になってみると気持ちがすっと冷めるようで全然練習の時のモチベーションと違う。面白くなかったらどうしようという不安で、僕はニコリともせず真顔でいた。
二人きりになったとたんシンと静かになった舞台の上で、体ごと南極へ飛んだみたいに、上手く頭が働かなくなってしまっていた。そんな中高橋が、「始めるぞ」と小さく呟いた。

「高橋です」
「はっ、橋本です」
「二人合わせて、『高所恐怖症』でーす」

 本当の南極へ空間移動したかのように、クラス全体の空気が冷気に包まれた。室内には気持ち程度の暖房がかかっていたのに、自分が立っている四角い空間は外よりずっと寒い気がした。一部の男子が関西人みたいに「なんやそれ!」と一言放った声の方に笑いが起きた。僕は不安を隠しきれなくなって、高橋の手を少し触ると黒板の方へ振り返った。高橋は僕に合わせて観客の生徒たちに背を向け、頭を低くして寄せた。
「おい何だよ」
「やっぱり、『ダブルブリッジ』の方が良かったかな?」
「いやそれはゼッタイ寒いって、よけいダメだったってきっと」
「じゃあ『ロンド橋と天の橋立』は?」
「何今ごろ言ってんだよ、もうやるしかないだろ」

 僕と高橋のヒソヒソとしたやり取りがクラス中に聞こえていて、小さく笑い声が起こる中、馴れ合いの男子生徒が「早く始めろよー」とヤジを飛ばした。僕らはクラスの方に向き直り、僕は「まぁまぁ」と場をなだめた後でコホン、コホン、と小さく咳をして始めた。

「高橋先生」
「はい。ああ橋本さん、背が低くてスポーツ刈りで、まるで小猿のような顔の橋本さんですね、今日はどうされました?」

高橋がかけていないメガネの頭を少し触った。野球部の男子がウヒャヒャとかウッキーとか奇声を上げて、それで既に笑いが起きている。僕は壇上で、いつものようにうるせぇなと言い返すことも出来なかったけれど、その時ばかりは笑いをあおってもらえて助かったと感謝しながらセリフを続けた。

「昨日の夜から頭が痛くて。吐き気がして、お腹も痛いんです」
「なるほど、お腹診ますね・・・。分かりました、高所恐怖症です」
 僕は上着を捲くりあげる仕草をし、高橋が聴診器をお腹に当てるふりをしてそう言うと、少しずつ笑いが起こった。
「体もだるくって、熱っぽくて、寒気がすごいんです」
「はーい口開けてください。うんうん、あーやっぱりそうだ、高所恐怖症ですね」
「体の節々が痛くて、咳とくしゃみと鼻水が止まらなくてですね」
「ふむふむ。えっ?!これはもしかして・・・。間違いない、高所恐怖症です」

 クラス中に既に笑いが起きており、僕は机を詰めて後ろに片し椅子だけを並べて座っている生徒たちの方を嬉しい気持ちで見渡した。その中でひときわ目を引いた白縫さんが、右手の指を揃えて口に当て、隣の女子と顔を合わせて控えめに笑いながら、「橋本君って、面白くって、すごく可愛いね」と一言言ったのか聞こえた。僕はクラス一可愛い彼女からの、どう解釈しても好意的な一言を耳に、目にした途端ぼーっとなって、口を半開きにして頬を赤らめた。さっきまで自分を包囲していた冷気は気が付くと消えていて、頬に感じているのと同じ放熱するような暖かい空気が指先まで体をくるんでいる。高橋が左手で僕の腰を叩き、「おい!」と小さく促した。僕はハッと高橋へ向き直って、練習で何度も何度も繰り返したセリフを自動的な口調で続けた。

「オレ、猿みたいな顔だし、背も高くないし」
「それは100パーセント遺伝ですね、直せません」
「ってそこは高所恐怖症やろ!」
「残念ながら、それも直せません。じゃあ風邪のお薬、一週間分出しときますね」
「やっぱり風邪かい、もうええわ」
 
 僕と高橋は僕が最後のセリフを言った後生徒の方に向き直ると二人で声を揃えて「ありがとうございました」と言って締めた。生徒達は皆笑って盛大な拍手をくれた。彼女は細くて色白な指先を、ほんのり紅色に色づいた形のよい唇に添えて笑いながら、「上手ねー」と隣の女子に言った。
 ぼーっとなる頭をそのままに、僕は壇上に立ち尽くしていた。「うける」とか、「めっちゃおもろい」とか、言わないんだなぁ。こうして正面から見てみると彼女の微笑みはまるでおとぎの国の姫様のような透明感があってただただ可愛く、僕は我を忘れた。彼女を前に長く立ち尽くしているのを高橋が引っ張って、僕はされるがまま壇上から降りると後ろの方に置いていた椅子に座った。
次の生徒たちが芸を始めたとき、彼女は突然後ろにいる僕に座ったまま振り返った。僕はもちろん彼女を見ていて、互いの目が合うと僕は視線をそらした。再びうかがうように覗き見ると、彼女は手を口に当てながら微笑んで、前に向き直った。

(なんて可憐なんだ!)
 僕はその時に、彼女は僕を好きになったのだと確信した。もしくはずっと僕のことが好きだったのかもしれない。自分には永遠に手の届くはずのない存在と思い込んできた、少女漫画の中の主人公のような白縫さんの気持ちを知って、その時に僕も、彼女を迷うことなく好きになってしまった。気分は夢心地、他の生徒の発表など上の空、僕は高揚し興奮気味の頭の中で、高橋との漫才の続きのような想像をした。高橋はかけていないメガネの頭を触りながら、「なるほど、分かりました。これは間違いない、100パーセント、両思いですね!」と言った。
 そして僕が、そこは高所恐怖症やろー、と突っ込んで、彼女がまた右手の指を口元に当てて控えめに笑って、とそんな楽しい空想を思い描いていたら心がウキウキしてきて、僕は一人表情をほころばせた。
その時、右隣の方からの視線に気付いて目をやった。無表情の山田照楼(やまだ てる)が、横目で僕の方を見ていて、僕が彼に見られていたのに気づくとその視線を、手品を披露している最中の他の班の生徒がいる壇上へ、ゆっくりと流した。クラスの誰もが笑顔で拍手をしたりお腹を抱えたり、表情も体も自然に動いている中で、僕に睨むような視線を送ってきた山田だけが僕には一瞬周囲から切り離され浮いて見えた。

 あの時は何とも思わなかったのだけれど、今日になってみて考え直すと、山田も僕同様彼女に気があるのだろうと僕は推測した。僕は二時限目の英語の授業中その考えに思い当たると、納得出来たのと同時に申し訳ない気持ちになった。山田には悪いけど、白縫さんは山田でなく、僕のことが好きなのだ。諦めてもらうより他に方法なんてない。
 僕は窓際の一番後ろの席で、授業中と休憩時間、つまり一日中、白縫さんの姿をうっとりと見つめながら、彼女がこちら側に顔を向ける度に視線をそらし、胸を高鳴らせていた。高橋は休憩時間中もハイテンションで、昨日テレビで放送していたプロ野球の試合の話を続けていた。高橋だけでなく放課後が近づくにつれて女子たちも男子生徒も、気持ちが高ぶってそわそわとしているように見えた。彼女ももちろんそのうちの一人だった。
 けれど六時限目の授業が終わった後も、それまでのクラスのざわめきの中でも、彼女が僕を気にかけているような様子はこれっぽちもなかった。それどころか彼女はクラスのどの男子生徒にも注意を向けておらず、授業が終わると慌てたようにスクールバッグを持って、女子の友達に促されながら嬉しそうに教室を駆け足で出て行ってしまった。

 椅子の足が床と擦れる雑音や男子の落胆の声、女子の甲高い笑い声というざわめきの中、高橋が僕の近くまで寄ってきた。彼はそれまで高まりっぱなしだったテンションを急に下げて、何も言い出さないのに何か言いたそうにしていた。僕はついに高橋になだめられるのかと思って、早口に「行こうぜ」と言って教室を後にした。廊下を歩いている時高橋が、「あのさ、橋本」と話しかけてきたのを、「いいよ、大丈夫だから」と言ってもみ消した。期待していたことが、高橋には上手くいったような甘い恋愛劇が、自分には起きなかったという事実と向き合うのが嫌だった。高橋は頭をかいて、何故かすまなそうな表情をしていた。僕と高橋は校舎を出るまで無言で隣合って歩いた。長い廊下を通り抜ける時も、最上階からの階段を降りていく時も、彼女が教室の影から出てくるんじゃないかという期待を捨てないまま、名残惜しい気持ちをひきずりつつ気持ちゆっくりと歩いた。その間も女子達の楽しそうな声は校舎中に響いていた。

「あっ!数学の教科書とノート持って帰るの、忘れたっぽい!」
 学校の正門を出たとき、僕は思い出した様子を装って青いスクールバックを開いてまさぐると、高橋に両手を合わせた。
「悪い、先帰ってて!」
 帰りの下駄箱の中にもチョコレートらしきものなど入っていなかった。僕はどうしても捨てきれない望みの糸端を掴みたくて、校門で立ち止まった。僕が先に帰ってくれと高橋に言うと、彼も困ったように右手で頭をかいて苦笑いを浮かべた。
「ごめん、というか、丁度良かった。俺もこれから・・・」
 高橋の泳いだ視線の先を見ると、坂の下でマネージャーがうつむいて待っていた。僕はそれを目にした途端、より一層ひどく落ち込んだ。
「なんだ・・・そうならそうと先に言えよ!」
 僕は高橋の硬化ゴムのようにどっしりと硬い、筋肉質な腰を思いっきり平手打ちした。
「行けよ!行っちまえ!」
「ごめんな、幸せで」
「アホか!じゃあな!」
「ああ、明日な!」
 満面の笑顔になった高橋が坂を走って降りていった。僕は彼の姿を見送りため息を漏らすと、教室へ引き返した。

 数学の教科書もノートも、バッグにちゃんと入っていた。誰もいない教室はさっきまでの賑わいが嘘のように静まりかえっている。僕は自分の席に駆け寄ると、机の中を覗き込んだ。分かってはいたんだけれども、やっぱり何も入っていない。

「あっ」
 声がしたのに慌てて頭を上げると、開いたままの教室の後ろのドアのところに山田が立っていた。制服姿なのを見て、僕は分かっていたのにとんちんかんな質問をした。

「お前、卓球だろ、クラブ終わったのか?」
「今日、部活ないだろ」
「そ、そうか」

 山田はしばらくその場に立ち止まった。女子・男子バレー部や陸上部、女子ソフトボール部などのスポーツ特待枠がある部活は、朝練と放課後の部活がほぼ毎日あるようで、卓球部の事情をよく知らなかった僕は、しかしながらそこまで詳しく聞くより先に言葉を失い、その場に立ち尽くした。山田と僕は黙ったまま向き合った。彼にじっと見つめられながら、僕の方からは動き出せずにいた。
 山田が自分の席へ駆け寄り、机の中を覗き込んだ。そして少し笑うと、呟くように言った。
「何も入ってないや」
 胸が締め付けられる思いがした。ひょっとしたら僕に渡しそびれたチョコレートが、机の中にこっそり入っているかもしれないという、オブラートのように薄っぺらい最後の切り札が内なる涙に溶けて消えてしまったことが悲しかった訳じゃなかった。山田というクラスメイトの男子に一部始終を見られ、心中を覗き見破られたことがたまらなく切なかった。僕は適当に返事をすることも出来ず、黙っていた。すると山田が微笑んで僕に言った。
「帰ろう」

 僕は黙ったままでいた。山田は先に教室を出て、僕を振り返った。僕は彼に続いて教室を出た。

 山田に帰ろうと声をかけられたとき、今日の一部始終がむなしく、彼に同情されることでその感情は余計に痛々しさが増し、僕はただ恥ずかしくなった。無言のまま下駄箱でそれぞれ靴を履き替え、二人肩を並べて校門から遠ざかった。並んでみると僕と山田の身長はほぼ同じくらいだった。高さの揃った影と同じように、僕らはずっと黙っていた。
 正門を出たとき、山田が僕に呟くように言った。
「嫌な一日だよな、二月十四日って」
「一年で一番、最悪の一日だ」

 僕はそう答えると、これ以上山田に優しくされるのが嫌で、歩みをぴたりと止めた。たとえ彼だって彼女からのチョコレートを受け取っていないとしても、自分の方が、朝からの全貌を見られている分、彼よりずっと立場が悪かった。
こんな気持ち、誰にも知られたくなかった。誰かに知られさえしなければ、テレビでも見ているうちに、プロ野球の中継にのめり込んで盛り上がっているうちに、きっと忘れてしまえたのに。普段話もしないし、たいして仲良くもないのに、これ以上同情されるなんて、虚しくて、まっぴらだった。むしろ山田のせいで今日という一日がより痛々しくなってしまったのだと、見当違いのいらいらをつのらせた。

 僕が足を止めると、山田は同じように足を止め、しばらくそのままでいた。するとふいに明るい声を出して、山田が提案した。

「なぁ、グリコしようぜ!」
 僕が顔を上げると、山田は肩ほどの高さに上げた握りこぶしを僕に向けて笑っていた。
「いくぞ、じゃんけんぽん!」
 山田がそう声を弾ませたとき、僕はコブシを下に向けて、動かなかった。山田は何も聞かなかったし、何も言わなかった。お前が好きなの彼女だろ、とか、今日一日そわそわしながら、ずっと楽しみにしてたんだろ、とか、気にすんなよ、とか。山田は何も言わず、ただグーを出して、笑っていた。クラスにいるときは仏頂面をして少しも笑わないくせに。山田がずっとグーを出しているので、僕は内心いじけながら、チョキにした手をちょっとだけ上げて下ろした。
「よし、俺の勝ちだな!」
 山田は楽しそうな声を張り上げながら、三歩進んだ。
「グーリーコ!もう一回いくぞ!じゃんけんぽん!」
 山田はグーの手を上に掲げた。僕は意地になり、チョキにした手を乱暴に上に挙げて下ろした。
「まーた俺の勝ちだな!」
 山田は再びグーリーコ!と甲高い声を上げて三歩進んだ。僕は山田が楽しそうにしている様を、いじましい気持ちで見ていた。

 何度かじゃんけんを繰り返すと、山田は校門前の短い坂を下りきり随分と遠くまで進んでいってしまった。三歩ずつ離れていく山田が角を曲がったとき、声が途絶えたので、彼はついに僕に愛想をつかして帰ってしまったんだろうと思った。少しほっとして、揃ったスニーカーのつま先を見つめ、ため息をついた。重く固まった足を前に出そうとしたとき、山田の声が遠くから聞こえてきた。

「橋本!次、お前が勝ったら、いいもんやる!」
 僕は顔を上げて、声のする方を見つめた。山田が声を張り上げた。
「じゃんけんぽん!お前、何出した?!」
 僕はまだやるのかとうんざりしながら、「チョキだよ!」と乱暴に応えた。すると山田は姿の見えないまま、再び声を上げた。
「俺はパー!お前の勝ちだ!来いよ!」
 僕はチョキにしたままの自分の右手を見つめた。山田は終わりまで優しく、僕はまるでだだをこねてその場に座り込んだ子供のようだった。僕は結局彼女からのチョコレートを貰えなかった悔しさと、山田の優しさに負けた惨めでいじましい気持ちと、今日一日の恥ずかしい気持ちを放出するように大声を張り上げながら、山田の進んだ方へ全速力で走った。
「チィーヨーーコーーレーーーイーーートッ!!」

 角を曲がって直ぐのところに山田がいて、僕が声を上げながら追いついたのを見つけた途端びっくりした顔を一瞬見せ、その後思いっきり声を上げて笑った。
「じゃあ、これやる!」

 山田の握りこぶしが僕に差し出され、僕はその下で右手を開いた。山田の手から、チルルチョコレートが二つ、僕の手に落ちてきた。僕の手の平の上の、包装紙で包まれた四角いチョコレートを山田は指差し、「そんで、一つを俺にくれ!」と言った。
 僕は言われた通り一つを摘んで、差し出された山田の手の平に乗せた。山田はにっこり笑って、「これで帰れるな、俺ら」と言った。僕はもう少しで泣きべそをかきそうだった。

 僕と山田は肩を並べて歩いた。山田が「食べよう」と言うので、僕はチルルチョコの包み紙を開いた。「ちょっと溶けてる」
「やっぱりちょっと溶けてるな。ずっとポケットに入れてた、今日一日」
「えぇ、朝からずっと?!」
「うん、友達に聞かれたら、もらったって、嘘つくつもりだった。でも聞かれなかったし、どのみち嘘なんかで取りつくろったって虚しかっただろうな」
 山田は上目使いに僕を見て、照れたように笑うと言った。血色の良い頬をぐっと上げた笑顔の山田は、今朝の表情の薄い彼よりずっとチャーミングで、僕はその時に、卒業間近まで話もまともにしたことなんかなかったのに、彼がまるでずっと前から打ち解けた気安い仲の幼馴染の友人であるかのようにすら思えた。
「お前が、思い詰めたみたいに下駄箱開けた後、俺を見上げたときから今日一日、お前の姿がまるで自分を見てるみたいで、情けなくて、ハラハラしたよ」
「なんだよ!やっぱり見てたのか!恥ずかしいな!」
「恥ずかしいよな、必死にチョコレート欲しがってる俺ら!」
「でも、もう嘘じゃないな!」
「嘘じゃないよな!もらったんだもんな、チョコ!」
「甘いな!」
「旨いな!」
「あっ、食べちゃったら証拠にならないかな?!」
「包み紙見せたらいいじゃん!取っとこう」
「じゃあさ!グリコして帰ろうぜ!」
「いいよ、じゃんけんぽん!」
 僕と山田は同時に出したチョキの手を見て大笑いした。そして顔を見合わせると声と歩調を揃えて、石を飛んで渡るように大股で前進した。
「チィーヨーコーレーイートッ!じゃんけんぽん!」
「ギャハハハハ!チーヨーコーレーイート!じゃんけんぽん!」
「ヒャッハハハッハ!!チィーヨーコーレーイートッ!じゃんけんぽん!」


 バレバレバレンタイン   了


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